コラム 鳥の歌   弘中泰雅

                          テクノバ株式会社  弘中泰雅 

        テクノバホームページ   コラム「生産四方山話」  食品産業研究会  日本穀物科学研究会

110221

除雪車

 先ほどの大雪のニュースを見て、ニューヨークの冬を思い出した。当日は前日からの大雪の予想で、前日出張先からもし大雪警報がでたら、明日は、会社は休みだと聞かされていた。夜が明けるとその通りの大雪で、朝目が覚めると早速休業の電話が入ってきた。何やら外があわただしので、窓から外を見たら、道路の除雪をしているようだった。私の泊まっていたホテルはニューヨーク郊外の、裕福な地域だったので、さすがに素早いなと思ってよく見ると、なんと除雪車は専用の除雪車ではなくて、それは清掃車だった。日本の清掃車とほぼ同じ形をした清掃車だ。何分、国がでかいので、その清掃車は日本のそれより、1回り、2回り大きかったが、まぎれもなく清掃車だった。前にスノウプラウを付けた清掃車が除雪をしているのである。
 清掃車なら電動ゲートやプッシャーを装備しているので、電気容量もあるだろうから、スノウプラウを取り付けるようにするのも、比較的簡単だろう。日本では除雪に金がかかると、連日ニュースで言っているが、大雪の日は清掃車ではごみの取集はできないので、ただ見ているだけだろう。それならニューヨークを見習って雪かきでもしたらどうだろう。勿論大雪ならできないが、10cm程度の雪なら、かき分けるだけなら問題はないだろう。現にニューヨークではやっているのだから、政治家や役人でニューヨークの雪かきを見たことのある人はいないのだろうか。知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるのではなかろうか。

100804

レコード

  奈良に住んでいると,時々木簡が発見されて,新しい史実がわかったと言う報道を耳にする。木簡を書いている時には,千年も後の事を考えて書いている訳でもあるまいが,歴史の記録として有効に活用されているのは事実である。記録と言えば英語でレコードであるが,かつてのレコードは今はCDに姿を変えている。CDはコンパクトディスクの略である。かつてのLPレコードより,コンパクトになった盤になったと言うことであろうが,記録には変わりない。
 CDはデジタル録音であるが,LPレコードの時代からデジタル録音はあった。私の記憶の限りでは日本コロンビア(DENON)が最初にデジタル音源から,アナログレコードを発売したはずだ。1970年代だったと思う。
 CDがデジタル録音と言うことは,音がデジタル信号としてファイル化されてCDに記録されている。ところがこのファイル名がいい加減なCDが沢山あることをご存知だろうか。私はCDをパソコンに取り込んで音楽を聴いているが,そのときそのファイル名を見る事ができる。ところがこのファイル名が本当にいい加減なのである。クラシック音楽にポピュラーソングの名前がついていたり,この間はシューマンのピアノ協奏曲にラフマニノフのピアノ協奏曲のファイル名がついていた。勿論ファイル名がないものまである。(曲名がないという意味のファイル名がついている。)
 シューマンのピアノ協奏曲のような名曲なら,数百年後でも間違われるようなことはないと思うが,こんな単純なケアレスミスが,曲によっては将来間違って名前が伝えられる危険さえある。もしも異星人が聞くことがあったら,間違いなく間違って伝えられるであろう。それは取り越し苦労としても,CDの製作者はレコード(記録)を取り扱うことを認識して,間違いのない記録を残して欲しいものである。


100719

ブラボー

 前から耳障りなのが,演奏会での演奏の終了と同時のブラボーの大声,中には演奏が終わる前のフライング気味のものまである。本人は演奏者の好演奏に対する賞賛の意味での発声だと思うが,中にはクラシック通をアピールするためのものではないかと思われるものもある。
 最近ではテレビのクラッシック番組は深夜に押しやられているので,重い目をこすりながら2夜続けてテレビで演奏会を聞いた。音楽に対する感じ思い思いだと思うが,第一夜のBBCオーケストラの新世界はなんともだるくてがっかりだったが,次の夜のアバドのチャイコフスキーは若者のオケだったが,素晴らしい気迫の熱演だった。その次に引き続いてデゥダメル,ロスアンジェル・フィルのマーラーの巨人は本当に素晴らしかった。遅くまで起きていた甲斐があった。
 その2つの好演に答えたのが,会場の聴衆の反応だった。もちろん違う日の別々の聴衆だが,消え入るように終わる終楽章に呼応して,しばらく(かなり長い間)の静寂の後に大きな拍手が沸き起こった。聴衆の感動が画面を通じて伝わってきた。私自身も,今から40年前の,バーンスタイン,ニューヨーク・フィルのマーラーの9番の最後のところで,同じような経験をした事がある。素晴らしい静寂の美しさだった。
 ブラボーの先陣争いだけが,好演に対する演奏者への賛辞ではないと思う。本当に音楽に聞き入り,消え入るように終わる余韻に浸りながらの,静寂も音楽の楽しみの一つである。そんな聴衆もいることを,ブラボー族の人たちにも分っていただきたい。もちろん曲によっては,終わるやいなやのブラボーがぴったりの曲もある。演奏会場で聞いているのは一人ではない,聴衆の反応で演奏会の値打ちが決まるような気がする。


100403

SIMカード

 最近新聞紙面で携帯電話のSIMカードの事が話題になっている。携帯電話には電話番号などを記録したSIMカードが入っている。このカードを入れ替えることで電話会社を乗り換える事ができるが,日本ではそれを制限するSIMロックが認められてきた。このSIMロック制限解除を早ければ年内にも実施するとのことである。
 SIMカードには思い出がある。5年ほど前になるが,ドイツの会社と行き来をしていた時,ドイツから関係者が来日してきた。そのとき彼が開口一番に携帯電話のSIMカードを買いたいと言い出した。SIMカードの話など聞いたこともなく,日本にはそんなもの(制度)はないと言ったら,そんなことは絶対にない,自分は世界中回っているがどこの国でもSIMカードを購入して,自分の携帯電話を使用して通話していると言った。有人に携帯電話のソフトを開発している者がいたので,たずねてみたら彼も知らないといっていた。海外の携帯電話と関わりを持っていた一部の人を除くと,殆どの日本人は当時SIMカードを知らなかったのではないだろか。
 その後海外出張用にノキアの世界対応の携帯電話を買ったとき,初めてSIMカードの存在を知った。10年以上前に始めて携帯電話を買ったが,そのときはAUの携帯を選んだ,その理由はKDDIが親会社なので国際対応は一番早いだろうと素人の推察で買ったが,おそらく日本で国際対応は一番遅れているのではなかろうか。日本の製造業のガラパゴス化が言われているが,携帯電話はその典型であろう。SIMカードの制限解除について国内電話会社の乗換えのみが,新聞紙面では話題になっているが,電話とメールくらいしか携帯電話を使用しない殆どのユーザーは,高い国内用携帯電話から逃げる可能性もある。「日本の常識は世界の非常識」というフレーズを思いだした


100305

アバター

 最近話題のアバターを見た,話題の3DCG映画である。私が最初に3D映画を見たのは,20年以上も前になる。LAのディズニーランドで見た。月日の経つのは全く早いものだ。映画館に入る前に,子供のころに見た立体漫画を見たのと同じような,赤と青のレンズの入った眼鏡が配られた。映画のタイトルは忘れたが,3D映画を作るための典型的な題材である,宇宙物であった。勿論まだ今のようなCGではなかったように思う。まだまだ幼稚な画面で,宇宙船が星と星の間を通過するような立体場面が登場した。隕石か何かが飛んできて立体感をとにかく強調していたように感じた。
 その当時加齢とともに,両眼の視力が異なり,立体映画を見るのがシンドかった記憶がある。立体用の眼鏡をはずすと,赤用の画面と青用の画面がずらされて投影されており,眼鏡を外すと本当に気分の悪くなるようなものだった。これに引き換えアバターの画面は,ピントの合っていない映画くらいのずれで,眼鏡なしでも,見る事ができないほどひどくはない。眼鏡も肉眼的には左右の差のない物で,偏光ガラスが入っているのであろうか。CGと実写の区別もつかないくらい,CGと実写が溶け合っていた。タイタニックの時の,おもちゃのようなタイタニック号とは大きな進歩である。これからはバーチャルと現実の差がますますなくなり,仮想と現実を識別できない事態が起きる可能性が大いにある。証拠写真という言葉があるが,写真は証拠と成らない可能性も出てきた。楽しむ面では良いが,複雑で難しい局面も出てくる予感がする。
 20年前には,ちゃちな眼鏡であったが,赤青眼鏡は,映画館を出る前に返却するシステムだった。今回眼鏡は持ち帰ることが出来た。無論ゴミにしかならないが,洗って滅菌して使用するより,新しい物を配った方が安上がりなのだろうか。この点でも隔世の感がある。物の値打ちはずいぶんと変った。世の中は大きく変っている。


090613

パラダイム・シフト

 パラダイム・シフトについて,ずっと関心をもっている。「パラダイム」とはルールとか規範とかの意味を持つギリシャ語が語源とのこと。なぜ関心を持っているかというと,パラダイム・シフトが企業の盛衰に大きな影響を持っているのではないかと考えるようになったからである。
 企業の改革の手法として,「リエンジニアリング」,「BPR」などがあるが,これらは時代とともに変わるパラダイムの変化に対応するために,企業経営を変えていこうと言うものだと考えている。企業がドメイン(領土・領域)の変えることも,パラダイム・シフトに企業が対応した結果であろう。
 「インタンジブル・アセット(無形資産)」の概念も,パラダイム・シフトに企業が対応するために,必要な財務諸表に現れない資産が必要だと言うことではないだろうか。典型が経営へのITの導入である。いくらコンピューターのハードとソフトを導入しても,組織にITリテラシーに代表される無形資産がなければ,ITの導入は効果を出せないというものである。コンピューターの登場により,企業をとりまくパラダイムが変わった。インタンジブル・アセットもコンピューター導入によるパラダイム・シフトに対するための企業の必要条件を述べたものであるとも解釈される。
 パラダイム・シフトがなければこのような概念も必要なかったのではなかろうか。なぜならうまくいっている企業はそのまま経営すれば良いからである。このように考えると激動する社会に身をさらされる企業にとって「パラダイム・シフト」の概念は極めて重要な意味を持つ。
 地球の環境が有限であることに人類が気付き,産業社会のおかれる環境がかわった。社会から自動車企業は低燃費などの環境対応車を求められてきた。日本の自動車企業はこれに即応して,ハイブリット車などの低燃費車を開発した。これに対してGMなどの米国自動車企業は米国政府に頼み,スーパー206,ローカルコンテント法などの輸入障壁や,ガソリン優遇などの国内対策をして,自分達は変わらずに社会の求めに反して,相変わらずガソリンイーターの車を販売し続けた。
 確かに今回のGMのチャプター11発効の原因は,リーマン・ブラザースの破綻が直接の原因ではあるが,本当の原因は「地球環境は有限である」ということに人類が気付いた「パラダイム・シフト」を,GMを代表とする米国自動車業界が無視したことだと考える。すなわち社会が求めない車を作り続けたことにある。養老氏の著書に「バカの壁」があるが,パラダイム・シフトに対して米国自動車業界は,まさにこのバカの壁に阻まれたのではなかろうか。パラダイム・シフトを認めたくない心が,パラダイム・シフトへの対応を阻む。


郵便ポスト

 出張などの折,郵便物を近所のポストに出し忘れてしまうと,郵便の投函にはほとほと困ってしまう。駅には殆どポストがない。駅員にたずねても殆どの場合,ポストはない。先日もポストに郵便を投函し忘れて,途中の大きな駅で投函しようと駅員に尋ねても,やはりポストは駅の中にはない。
 大きな駅の構内にポストがあると便利だと思うけれど,何故だかポストは構内にない(おそらく収拾が面倒だから)。何度もいろいろな駅で,駅員に何度も尋ねたことがあるが,皆知らないとか駅前の何とかホテルにあるとか,移動の途中で大きな荷物を抱えて移動できないような位置を示されるなど,使える場所にない。見知らぬ場所での投函は本当に難しい。
 ポストは元来,投函する人に便利がところに設置するものだと思うが,私の経験ではそれは違う。大通りなど幅の広い道では間違いなく,同じ側に並んでいる。察するに郵便の回収に便利な回収路に沿って設置してあるように思う。効率は大切だが,余りにもサービス業としてはお粗末である。客の利便性ではなく,荷物の積み下ろしを重視して店を建てれば,店の経営は成り立たないはずだ。ポストはいわば,無人出張店舗である。そんな考えはないのだろうか。
 半年ほど前,原稿の著者校正を速達で出したが,届け先に届いてなくて,締め切りは迫るし,大騒ぎをした。急ぐからこそ速達で出したのに失くしてしまわれたらどうしようもない。郵便に問い合わせたが,調べましたが見つかりませんでしたのこと,余りにも情けない。顧客の貴重な郵便物をなくしておきながら,郵便料金も払い戻さない。民間企業なら考えられない。民間企業は1通の郵便物でも,追加料金なしで自宅まで取りに来てくれる。しかも荷物一つ一つに管理コードをつけて管理をしている。おそらく民間企業なら探したけれども見つかりませんでした,という以上の対応をしてくれるであろう。余りにもお粗末な郵便システムにがっかりする昨今である。


090202

ハドソン川UA不時着

 1月15日のUSエアーのハドソン川への不時着には驚いた。飛行機に乗ると前の座席の背もたれのポケットに緊急時のパンフレットが入っているが,その中に飛行機が不時着水したときのイラストがある。パンフレットを見るたびにこんなことありえるかと思っていたが,今回はそのイラストのままの光景で,なりより大きな惨事にならずにすんでよかった。パイロットの冷静な判断と技術に感動したが,エンジンの止まったジェット機があのように滑空できるとは思いもしなかった。飛び立ったばかりで燃料はほとんど残っていただろうから,飛行機は重かったはずだ。その点でも降下速度は早かったであろう。飛行機に短時間で浸水してきたが,長距離を飛んで燃料を消費した飛行機ならもっと長時間浮いていることは可能であろう。ラガーディアから飛び立った飛行機が,ハドソン川に着水するためには,航空路上には巨大なワシントンブリッジの橋塔とそれをつなぐロープがあり,それをよけながらのエンジン停止の飛行機での飛行は相当に難しかったはずだ。

 管制塔からは近くのテータボローの空港に行くよう指示がでていたようだが,何度かこの空港のそばを通った経験から言えば,いわば八尾空港にジェット機で着陸するようなもので,それこそ周囲を巻き込んだ大惨事になった可能性がある。この季節ハドソン川は結氷することもあるが,今回はそのようなこともなく良かった。

 着水した飛行機に沢山のフェリーボートが集まって来て搭乗客を救助したのも,ニュージャーや周囲の島からの通勤用や自由の女神像などの観光用の船が,沢山いるニューヨークならではの幸運だった。たとえば関空の近くでこのようなことがもし起きたら船での救助にはもっと時間が掛かるのではないか。日本には臨海空港が沢山あるが,今回の事故を教訓にして非常時の救助体制を整備する必要がある。その様な検討は始められているのだろうか。


090107

企業合併

 年の初めの話題には寂しいが,昨年の秋に投資銀行のリーマン・ブラザースが破綻した。それ以降100年に一度という経済不況が世界を襲っている。いつのころか資本主義の行く末に不安を感じていた。というか資本主義が資本主義でなくなっていることに問題を感じていた。そもそも資本は元であり,元金である。事業の成立・保持に要する基金であるはずである。だとすれば本来例えば会社創設時の資本こそが真の資本とも考えられる。ところが現在ではお金そのものが商品化されている。実際安定株主の株(お金)は資本になるが,投機的な株は資本とは言葉の定義からも外れてしまうのではないだろうか。昨今の経済はむしろ投機主義ではなかったのか。

 資本主義では市場が大切であるが,既に公正な市場はなくなっている可能性がある。不特定多数の企業・個人がいて市場は成立するが,実際には国家予算に匹敵するお金を動かせる,いくつかの金融グループが市場のコントロールをしている。表向きは市場の原理と言いながら,作為的な操作が行なわれてきた。市場至上主義の人は,既に市場が崩壊しているから,市場主義を叫ぶ,例えば実際株が電子取引になっているが,技術的には市場が開く前に売り買いの情報は見えるはずで,これを誰も見ていない保証はだれが担保出来るだろうか。いずれニュースになる日も来よう。

 大企業は日本の土地バブルの崩壊で,to fail too big (大きすぎて,潰せない)の味をしめた。潰したら経済への影響が大きすぎると言うことで政府が支援にはいる,これを見越して皆合併に走っている。リーマンショック以降にも金融機関の合併が発表された。実際メーカーには独占禁止法があるが,金融,流通などはどうなのであろうか。流通も本当に大きくなっている。もちろんスケールメリットはあろうが,限度を超えた巨大化にスケールメリットはあるのだろうか。たいていの場合,巨大な海外企業との競争に負けないためという理由で合併が行われている。世界最大の自動車会社GMが破綻の危機に立っている。大きければ潰れない保証はない,行き過ぎた合併は考え直すべきではないだろうか。


081208

Army Corps of Engineers

 穀物関係の研究会で米国の穀物事情の講演を聴いていると,’Army Corps of Engineers’突然なじみのない言葉が耳に入ってきた。米国はご存知のとおり大きな国で,穀物の産地も全土に広がっているし,穀物の産地は消費地である大都会から離れている。また穀物産地の大部分は内陸部に分布しているため,輸出のためには穀物を港湾まで運ばねばならない。この輸送のために,鉄道輸送と同時にミシシッピー川とその支流,コロンビア川,スネーク川などの河川による船舶輸送が主流になっている。日本では大規模な河川の船舶通行は少ないので,あまり実感がないが,高度差のある地形を流れる河川を航行するにはLock(閘門]とDam(堰)が必要なる。
 この河川輸送の鍵とでもいえる閘門と堰を,陸軍工兵団とでも訳すのだろうかArmy Corps of Engineersが管理しているとのことであった。これらの河川は,大型船も航行できるので,軍事上も極めて大切であるために,軍隊が管理しているとのことらしい。従って,当然穀物を輸送する船舶もこの管理下にある。日本で言えば瀬戸内海航路は海上自衛隊が管理をするようなものであろうか。日本なら当然国土省の管理下にある交通業務が,国防省にあることには驚いた。
 交通の要衝を軍隊が管理しているなど,日本人の想像を超えるものである。国家安全保障にたいする考え方の違いを再認識した。食糧の自給という安全保障のほうも忘れないようにしなければならない。


081106

迷惑メール

 先日たった一日で携帯電話に、500通を超える迷惑メールが届いた。昼夜分かたず、にぎやかに着信メロディがなった。計算上は2,3分に1回届く計算だが、実感としては常に携帯電話から着信メロディが聞こえてくる感じで、5分間も静寂が続くと、どうしたのかなと思うほどであった。
 通常携帯メールは家人との連絡以外はほとんど使わないし、新幹線の切符の予約以外のwebサービスは使用したこともない。もちろんその筋のメールも利用したことはないので、業者がランダムアクセスをかけて当方のメールアドレスを見つけたのであろう。1ヶ月ほど前から、1日に2,3通からはじまって、いわゆる出会い系のメールばかり着信するようになった。そのたびに面倒に思いながら迷惑メール拒否登録していったが、努力は報われず今回の大量着信の前には、着信は一日当たり10通くらいになっていた。当方の携帯(電話会社)の迷惑メール登録サーバー容量は100アドレスで、当然直ぐに一杯になった。
 そんな時、突然のように嵐のように迷惑メールが降って来たわけだ。それでも最初のうちは迷惑メールに上書き登録していったが、登録キャパを超えているから、当前古いものから順に消されていくわけである。500ものメールが来ると登録しても、4,5時間前登録のアドレスは上書きされてしまうことになる。登録を繰り返しても以前のメールアドレスから発信されたものはほとんどないようだ、おそらく100通に2,3通しかないのである。従って500通ばかりの迷惑メールのほとんどは驚くことに全て異なったアドレス、あるいはドメインのメールである。嵐の一日目は500通、二日目は約200通、三日目の今日は前の状況に戻った。このような状況から送ってきた者(業者?)は1人(社)であると予想される。
 メールアドレスを変えれば済むことであるが、社会道徳を破る輩のせいでこちらがアドレスを変えるのも癪なので、そのままどうなるかほっておくことにした。コンピュータのメールアドレスにもおそらく毎日数100通を越えるスパムメールが届いているはずだが、こちらの方は、その過半はプロバイダーのサーバーが防いでくれている。それでも届いた数100通のスパムメールのほとんどは、アンチウイルスソフトがはじいてくれるので、毎日自ら除去しているのは数十通ほどだ。
 携帯電話の拒否メール登録のキャパが100アドレスというのは実態とかけ離れている。携帯会社には実態にあった有効な対策を施して欲しい。これだけのメールを携帯から打っているとは考えられないの、電話会社は課金できないので被害者であろうが、ユーザーから見れば対応をしてくれない電話会社には不満が残る。そのうちまた次の嵐がくるのだろうか。


080330

キッチンカー

 アメリカでは第二次世界大戦中、戦地や同盟国に食糧を供給するために、小麦粉の生産量がそれまでの1.5倍に達した。戦争が終結するとこの小麦が余剰になった。朝鮮戦争が終結すると、その在庫が膨大となり、倉庫料等がかさみ、農民団体からの突き上げもあり政治問題化した。そんな中、アメリカでは1954年(昭和29年)に「余剰農産物処理法(PL480)」が議会を通過した。
 この法律に基づき、アメリカは余剰小麦の処理を始めた。この戦略の一つである、キッチンカーという車をご存知だろうか。昭和31年から36年頃、日本全国の農村を巡回した栄養改善指導用のバスのことである。見た目はバスだが、中にはガスレンジ、冷蔵庫、食器棚などを備えており、キッチンカーの後ろは三方開きになっており、公民館の庭や、空き地などで、多くの農村婦人を集め料理指導ができるようになっていた。このキッチンカーの料理指導では、アメリカの輸出促進団体との約束で、小麦粉を使ったメニューを必ず加えることが義務付けられていた。すなわち小麦消費プロパガンダだったわけである。
 このキッチンカーによって、多くの小麦を使った料理や小麦粉製品が、全国の津々浦々までひろがった。戦後の食糧不足を補うために援助された、学校給食とともにアメリカの小麦粉の輸出戦略を担うものであった。このキッチンカーが無ければ、日本人は今のように小麦粉製品、すなわちパン、麺などに親しむことは無かっただろうとも言われている。その結果現在日本の小麦の輸入量は約550万トンに達している。ここで大切なことは、これがアメリカの輸出戦略の結果であることである。
 共産国であったロシアや中国が国際穀物市場に参入したこと、BRICSなどの経済拡大により穀物消費が爆発的に増えていること、穀物を原料とする自動車用の燃料アルコールの需要が発生したこと、いわゆる地球温暖化によると思われる旱魃による収量低下、地下水の枯渇などにより、穀物在庫の状況はまったく逆になってしまった。すなわち小麦を始めとする穀物は足りなくなったのである。
 これまで過剰在庫により(生産国アメリカの戦略により)日本は不自由なく穀物を買うことが出来たが、パラダイムは確実に変化した。状況(戦況)が変われば、戦略は変わる。戦略的に売り込まれたものは、戦略的に売らなくなる状況になる、可能性があることを忘れてはならない。


080229

全要素生産性

 耳慣れない言葉ですが「全要素生産性」という経済指標があります。労働生産性や資本生産性のように、個別的な生産要素の生産性ではないので、直感的に分かりにくいのですが。全要素生産性とは、生産要素の総体と付加価値等の関係を示すもののようです。全要素生産性は生産性を直接測定することは難しく、生産における労働と資本の貢献分の残り(ソロー残差)に相当するようです。その残差のうち短期的には固定設備の操業率や労働者の技術水準上昇、長期的には技術体系(技術水準や技術活用法)の進歩や企業組織改革、産業変化の効果が含まれます。この残差のうち、技術進歩が主要な構成要素とみなされるために、全要素生産性=広義の技術的進歩と解釈されます。この指標は絶対的水準(一人当たりの付加価値額)ではなく、上昇率(変化率)で表されます。
 これまで私は、日本の食品製造業は、製造業従業員の13%も就労しながら、従業員一人当たりの生産性は全製造業の平均生産性の59%にしかならないことを、機会あるごと(講演や業界専門誌など)に述べてきました。すなわち国の貴重な資源である労働力を日本の食品製造業は浪費しているとも言えるのです。
 その原因を探るため、いろいろと調べるうちに、この全要素生産性(TFP)という指標を見つけました。社会経済生産性本部の報告によると日本の全産業の1981〜2003年(全期間平均=長期)のTFPは1.15%で、1999〜2003年(直近5年平均=直近)は1.75%でした。これに対し製造業は全期間平均3.39%、直近5年平均は2.48%で、さすがに物作り大国と言われるように、日本の製造業は全産業のTFPの約2倍を示しています。
 これに対して食料品製造業TFPは長期−0.51%、直近−1.16%です。これはTFPの解釈からすると、日本の食料品製造業の技術的進歩は、止まっているどころか後退していることになります。しかも長期的に後退し、かつ回復の兆しも見えていないのです。まさに憂うべき状態です。この報告の中で、一、二、三次産業を含む24の産業カテゴリーの中で食料品製造業は最悪の数字を示しています。
 ちなみに、最も高い上昇率を示したのは、電気機械で長期9.46%、直近11.17%で、以前から低生産性が取り上げられている、農林水産業は長期−0.14、直近2.79%、サービス業は長期0.08%、直近2.55%では、いずれも近年向上しています。技術の進歩に取り組み成果が上がってきているのでしょう。技術的に退歩していると見なされる食品製造業はこのままでいいのでしょうか。


080212

富士山

 私は新幹線で東京に行くときはできるだけ北側の席に座るようにしている。その理由は富士山が見えるからです。富士山は上りの列車の方が見やすく、朝きれいな富士山が見えると何か良いことがありそうな気がします。それくらいきれいな富士山は案外見ることはできないものです。雨が降ればぜんぜん見えませんし、霧や霞でも見えません。天気は良くても富士山だけに雲が掛かったりしているときもあります。
 気が向けば、富士山が見える日はデジカメで車窓から写真を取ります。上りの新幹線が由比トンネルを抜け、富士川の鉄橋にかかったあたりが、シャッターチャンスです。橋の上だと橋の構造物しか障害物がなく、その間から取れればきれいな写真が取れます。300km/hに近い速度で走っているので、写真の真ん中に鉄柱が写る場合もあります。従ってなかなか富士山だけの写真は難しいものです。橋を渡りきると防音壁と電柱や電線をいかに避けるかがポイントです。次はすぐに新富士駅です、ここはまったく見えません。後は富士山が愛鷹山に隠れるまでの数分間のチャンスです。結構難しいものです。
 富士山を世界遺産にという話があるようですが、なかなか認定してもらえないようです。その理由は富士山が不当投棄などによりごみが多くあり、きれいな山ではないからだそうです。この話と新幹線からの富士山の写真は私にとっては重なります。おそらく一番多くの人が富士山を眺めるのは新幹線の車窓からではないでしょうか。しかし、電柱や煙突、防音壁や建物などで天候によらず、きれいな富士山をゆっくり見ることはできないのです。
 昨年ドイツ人とフランス人を伴って下りの新幹線に乗りました。下りはあまり富士山を見るには良い方向ではありませんが、二人は一生懸命デジカメのシャッターを切っていました。おそらく二人のカメラの写真は電柱や電線、防音壁、建物の写真ばかりだったのではないかと心配しています。
 世界に二つとない不二山を日本人はもっと大切にすべきではないでしょうか。市街地で電柱の地中化が進んでいますが、新幹線の富士川から新富士駅北側あたりの、電柱の地中化を最優先で勧めるべきです。新幹線からきれいな富士山が見えるようになるまで、世界遺産に登録されないような気がしますし、また登録されて欲しくないような気もします。


080114

のだめカンタービレ

 のだめカンタータなんとも奇妙な響きですが、実はコミックの題名です。「のだめ」とはヒロインの女子音大生の愛称で、カンタービレとは音楽の演奏記号のひとつで歌うようにという意味です。ちなみにチャイコフスキー弦楽4重奏のアンダンテ カンタービレが有名です。最近このコミックがテレビ化されて、家人が見ているのでたまたまそばで見たのです。もちろんコミックが基ですから、演出や演技はオーバーでまさにコミックの世界です。ストーリーは良くありがちな恋愛物です、しかしながらその音楽的な内容はかなり高度です。長年の音楽ファンの私にも、音楽的にかなり魅力的なものだし、ストーリーにしたがって古今の名曲がバックでながれるので退屈しません。音楽や音楽の世界を良く知った人が書いたものだと想像されます。
 ところで、ふと気がつくと、基がコミックですから、いわゆる漫画本の中ではもちろん音楽、音は鳴らすことは出来ません。かつて野球の「巨人の星」、バレーの「アタックNo.1」、サッカーの「キャプテン翼」などスポーツものが流行り、子供たちに大人気で、これらのコミックがきっかけで野球やバレー、サッカーを始めた子もたくさんいます。しかしもともとこれらのテーマのスポーツは観戦とも言うように目で見るもの、見ることができます。ところが音である音楽は、目では見えません。曲名が書かれても、それで音楽をイメージできる人は一握りでしょうし、まして音譜が書かれても、それで頭の中で音楽がなる人など殆どいないでしょうから、音の使えない視覚だけのコミックで、どうしてこのコミックの人気がこのように出たのか不思議です。しかもここで言う音楽は、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、リヒャル・トシュトラウス、ガーシュインなどの、いわゆる御堅いクラッシック音楽です。たとえ恋愛物語であっても、目では見えない、しかも一般的には堅いといわれる世界を取り扱い、これだけの人気コミックが作られたのか、一考の価値があります。聴覚の視覚化に成功したのでしょうか。コミックが流行ったからこそ、テレビ化されたのでしょうから、一度コミックを見て、みたいと思っています。 案外今年は若者の間で、クラッシック音楽が流行するかも知れません。


080107

リエンジニアリング

初詣の帰り、近所の食品スーパーに立ち寄ったついでに、食糧自給率39%の実態を見てみようと思い、棚の生鮮食品の原産地表示を眺めて回った。なんと有るわ、有るわ、チリ、メキシコ、オーストラリア、フィリピン、インドネシア、タイ、ロシア、ノルウエー、グリーンランド、モーリタニア、南アフリカ、イスラエル・・・・、ちょっと眺めただけで殆ど地球全体から食材が輸入されてきていることがわかる。このほか加工食品の原料として食品に入っているものも調べれば、これの何倍にもなるのであろう。
 30年ばかり前、晩秋のヨーロッパのスーパーで、イスラエルやキプロスから輸入されていた野菜や果物を見て、こんなものまで輸入してコストが良く合うものだと驚いた。そのころは輸入果実といえばバナナくらいで、野菜の輸入など考えられなかった。今や日本は当時のヨーロッパ以上の、食糧輸入の状況である。
 10年以上前になるだろうが、原油の輸入ルートであるシーレーンを守る構想があった。10年前の原油価格に比べて、現在の価格は約10倍になっている。この前まで補給艦をこのシーレーンに派遣していた日本であるが、石油の価格の上昇には結局無力であった。軍艦ではエネルギー価格の上昇は守りきれない事がわかった。
 巷では、年金問題、C型肝炎が政治の争点に成っている、このほか地球温暖化、救急患者特に妊婦の病院による受け入れ拒否など、日常の生活に密着した問題がクローズアップされている。一般の市民として、新聞やテレビなど以外にはニュースソースをもたない私だが、なにか対応が違うような気がしてならない。どうも日本国、日本人の対応はどうも場当たり的な感じがする。治療で言えば対症療法で、原因を取り除き完治することはできない。
 改革や民営化をすれば、世の中が良くなるような錯覚を、与えられすぎているのではないか。道路は十分にあるという人がいれば、まだまだ不足しているという人もいる。真の議論がなされれば、完全一致とはいかなくても、それぞれが妥協できる程度の収束は出来るはずである。余りにも、自らの立場による利害に基づき議論されすぎている感じがする。市場経済は見えない神の手で制御されるという説があったが、実態は見えないファンドの手で経済は揺すぶられている。
 戦後レジームの見直しという言葉があるが、戦後60年以上経過し、体制というより社会のシステムがグローバル経済の中で機能しなくなったのではなかろうか。対症療法ではなく、年金にしても薬事行政にしても、社会のシステムをきちっとしなければ、社会は良くならない。日本人として、何をしなければならないのか、何をしてはならないのか、何ができるのか、何ができないのか、もう一度原点に返って考えなければならないのではないだろうか。
 そんな風に考えれば、食料自給率39%という、考えるだけでも恐ろしい現実には目をつぶることは出来ないだろう。今の日本に必要なのは社会のシステムを見直すリエンジニアリングではないだろうか。物の本質に立ち返り社会の仕組み、枠組みを考え直す時期が来ている。


071204

インタンジブル・アセット(無形資産、組織資産

 最近の研究では企業にとって、組織の中にある目に見えない資産が大切であることが言われている。アダム・スミス以来の分業化の仕組みが組織を生み、ついにはその組織が仕事のフローとの解離を起こし、これを防ぐために1990年ころからリエンジニアリングという、ITをつかったビジネスの効率化が提唱されている。ところがITの導入に成功した企業とそうでなかった企業がある、両者の差は企業の持つインタンジブル・アセットによると見られている。
 リエンジニアリングの成功例として、ウォルマート(流通)がデータベースの共有化により、P&G(メーカー)に使い捨てオムツの在庫の管理を任せた例が挙げられている。一方日本では、流通が食品メーカーなどに日配商品の一括納入を求め、配達を自ら行なうようになった例が増えてきている。この相反する例を考える場合、日本では流通の進めるリエンジニアリングの要求に食品メーカーなどが対応できない状況があるのではないだろうか。一見面倒な仕事が減るわけであるが、反面配達という付加価値をメーカーは失ったということになる。
 最近穀物のバイオ燃料への転換が問題にされている。穀物は食糧であるという人類数千年の歴史的事実が覆されている。農業分野が独占していたものが、工業分野に転換され始めた。これはバイオテクノロジーの成果の賜物であろう。現在のバイオテクノロジーの日本における基盤は農芸化学であると思うが、考えてみれば農学領域を専攻した学生が、バイオ燃料、センサーテクノロジーといった工業領域に流れ始めているともいえる。最近食品メーカーの人に優秀な人を採用しづらくなったと聞く。とうもろこしや大豆だけでなく人材も流失し始めている。
 人材こそが組織の能力を決定づけ、その企業が内存する能力こそが、リエンジニアリングの成否を決定するインタンジブル・アセットであるとすれば、優秀な人が来なくなった産業の将来は明るくない。いくら高度の機械やITを導入しても、それを使いこなせる人材、組織が育っていなければ役に立たない。この視点こそ企業の将来を決定する。近年言われ続けている食品工場の生産性の低さもこれに由来している可能性が高い。


070617

これだけは知っておきたいIT経営

 今回の表題は書名である。この本は経済産業省が推し進めるIT経営応援隊のIT経営教科書作成委員会が書いたものです。この本はインターネット(http://www.itouentai.jp/kyoukasyo/index.html)より無料でダウンロードできます。企業の経営者、管理職のかたがたに是非読んでいただきたい。これからのITの取り組みについて分りやすく書いてある。例えばITに取り組まなければならない必要について、「今なぜ「IT経営」でしょうか」とか、なかなかITに踏みきれない社長のために、「社長のIT経営“やれないモード”の自己診断」などもある。いずれはと思いながらも、IT化に踏み出す決心が付かない社長のためには、チャートつきでその、理由を自己分析できます。IT経営に踏み切れない社長のために、「IT経営「やれない壁」の発生原因と”気付き“という節もあります。
 IT経営に踏み切れない社長さんが読まれれば、思い当たる節があるのではないでしょうか。何故政府がこのように企業のIT化を促進しているかと言えば、企業が存続していくためにはIT化を避けて通れないからです。世の中はすごい速度で変化していますが、多くの企業は業界の変化や社会の変化には留意していますが、IT化が引き起こす変化についてはなかなか気がつかないものです。ITの変化は、突然社会に大きな変化や変革をもたらし、企業に大きな影響を及ぼします。これからのITの変化は今までのような省力化ではありません。仕事の仕組みを大きく変化し、企業間や社会全体にも影響を与えていきます。このような変化に追従していくためにはIT化は避けて通れないものです。
 この本は上述したとおり、インターネットで簡単に入手できます。是非一読されることをお勧めいたします。


070421

気付きませんか食料品製造業

 先般のニュースでは日本の生産性は米国の70%と言うことでした。その原因はサービス業の生産性が低いからだと説明されていました。それでは製造業は高いのでしょうか。工業統計によると、製造業は大分類で23の産業分類に分けられています。産業分類別に一人当たりの製造品出荷額等を比較すると、全産業の平均が3490万円で、1位の石油製品・石炭製品製造業の55670万円から、最下位の衣服・その他の繊維製品製造業の810万円までの開いています。一人当たりの付加価値額で見ると全産業の平均が1240万円で、最高は石油・石炭製品製造業の3360万円、続いて化学工業の3250万円となり、そして最下位は、やはり衣類等の製造業390万円です。これらの数字は直接生産性の数値ではありませんが、かなり関連の高い指数です。
 読者の多くの方に関心のある、食品製造業は事業所数ベースでは、全事業所数の10.3%で、金属製品製造業の13,41%、一般機械器具製造業の12.58%に続き3位、従業員ベースでは全産業の13.28%で、2位の一般機械器具製造業の12.07%を抑え1位になり、まさに日本の基幹産業です。ところがこの食品製造業は従業員数では13.28%でありながら、製造品の出荷額等では7.64%しか生産しておりません。言い換えれば日本の全労働者が10000人いると仮定して食料品製造業には1328人が従事して、成し得た仕事の成果は764人分しかないと言うことになります。付加価値額ベースで見てもほぼ同様の傾向です。
 一人当たり付加価値額で見ると、全産業平均が1237万円であるにも関わらず、食品製造業757万円と、製造業平均一人当たり付加価値の61.2%のしか生み出していません。従業員数12.38%の食品製造業が40%近く低いということは、日本の製造業の生産性を5%程度引き下げている計算になります。事業所の規模を従業員数で比較すると、全製造業で1工場あたり18.2人、食品製造業では23.5人で、食品製造業は従業員規模で平均を上回っており、規模が小さいために生産性が低いわけでもない様です。パン製造業は1工場あたり53人であり、製造業の中でも事業所規模的には大きい部類に入り設備型の産業です。自動車などを含む輸送用機械器具製造業の55.3人に平均事業所従業員数規模では引けをとりません。しかしながら一人当たりの出荷額は1430万円で、全製造業平均3490万円の半分にもなりません。
 この様な現状の中で、一人当たりの現金給与額は製造業平均では423万円ですが、食料品製造業はパートなどが多いと言う実情もありますが267万円です。最高の石油石炭製品製造業の703万円で、鉄鋼業、化学工業、輸送用機械器具製造業、情報通信機械製造業が続きます。やはりこれらの産業は一人当たり出荷額、付加価値額とも高い産業で、これらが高いところが高賃金になっているようです。
 何故この様な現状になっているのでしょうか。誰の責任でしょうか。このような現状になっている原因のひとつに、食料品製造業に関わる皆さんが、上述した現実に真剣に気付いている人が少ないことが原因ではないかと思っています。日々の問題に追われ、日々の納期に間に合わすことに負われて、自らが置かれている現状に気付いてない方が多いからではないでしょうか。これらの現実に気付き改善していかなければ食料品製造業に明るい明日はありません。

                                                  17年工業統計

070323

既得権益

 いつもの年なら大阪場所が春を呼ぶが、今年は春が大阪場所をつれて来た。その後いっぺん冬に逆戻り異常な春である。八百長疑念が頭をよぎるのか、櫓太鼓の音も空々しい。揺らめく部屋名を記した幟の元には、当日券ありのポスター、連日の満員御礼とは行かないようである。相撲だけでなく野球にも金の絡んだ不祥事のニュースが流れている。
 ニュースといえば国会議員の会計処理の問題も昨今のにぎやかな話題である。誰がどう聞いても筋が通らない話で時間が費やされている。物事には道理というものがあるはずである。法律に違反していなければ適切であるというのでは道理は引っ込む。高級官僚の再就職の問題も同様である。このシステムが日本の社会に大きな問題の引き金になったのは明らかである。
 社会の上層部が既得権益にしがみ付いている。かつて一億総中流といわれた日本が、今や階層化の閉塞感に閉じ込められてきている。パートやフリーターが正社員になれる道をつけることが、本当の再チャレンジか、多くの政治家は親や親族の地盤、看板、鞄を引きついて政治家になってきた。こんな人たちにチャレンジなど分かるはずもない。
 自らが恵まれた立場にいて、人の再チャレンジ云々などおこがましい。条件を平等に与えることこそ、再チャレンジの最も大切なことであろう。例えば国会議員に立候補する場合は、親族の国会議員の選挙区を引き継いで立候補できないようにすれば、全ての立候補者に機会均等になる。国権の最高機関である国会議員の多くが、既得権者で占められていることが、現在日本の根本の問題ではなかろうか。そういえばわが同盟国米国も、大統領は元大統領の息子、次の有力大統領候補は元大統領の妻、民主主義は本当に進歩しているのだろか。


061225

記録の残らない時代

 年も押し迫ってきたが、行く年の変化と記録媒体について考えて見たい。コンピューターで使う媒体を自分で使った分に限ってちょっと振りかえってみても。カセットテープ、8インチフロッピー、5インチフロッピー、3.5インチフロッピー(密度はどんどん増加)、Zip、スマートメモリー、USBスティックメモリー、SDメモリー、CD-RDVD-RHDなどほんのここ20年余りの間に変わっていった。記録を残す本体もメカニカルのタイプライター、電子タイプライター、ワープロ続いてパソコンになり、OSS-BASICMS-DOSWindows-3.1Windows95Windows98,Windows-MeWindows2000Windows-Xpと変わっていった。
 Windows-3.1Lotus Super Officeには確かワープロOASISからの変換ソフトがついていたので、ワープロの文章も変換することが出来たが、いつの間にかそのような機能は現在の同様なソフトにはついていないので、ワープロのフロッピーから文章を読み取ることは出来ない。このような急速の変化のなかで古いメディアの記録は記録を作った本体がよほど良い状況で残っていなければ再現できない。
 年々歳々新製品が開発され、記録物の作成機能は向上するが、肝心の記録再生機能は寸断されていく。1000年前の日記は今でも読むことが出来るが、たった20年前にワープロで作った文章を既に開くことが出来ない。 
記録とはのちのち伝える必要から、事実を書き記すことと広辞苑にはあるが、ここ
20年の間に書き留められたものの中にはのちのち伝えられないものがたくさん存在する。そのうち確実に記録を残したいものは紙に書いておけという風な時代が必ず来るであろう。よほど大きな組織でなければ、記録媒体をそのつど変換することは不可能であろう。特に個人の記録はまったく残らない可能性もある。歴史的な価値のある記録の全てが組織的なものとは限らない。そうしなければ、将来ここ2000年の歴史の中で21世紀がもっとも記録の無い時代になるかもしれない。そのためには記録の保守について現代社会の全員が考えていかなければならない。早く対策を講じなければ取り返しのつかないことになる。


061125

エキナカ

 エキナカすなわち駅の中が新たなビジネスチャンスと注目されている。そのため、駅のコンコースにコンビニ、理髪店、サラ金の店、ベーカリー、輸入食材店など等、何でもあり便利になった。その中で新たに出現したのは、車輪つきの屋台のような店舗である。例えば東京駅の中央コンコースはお土産屋などが、数多く出店して、今まで以上に混雑してきたように感じる。店があるということは物流も伴うので、開店の準備時や商品の補充を全ての店がいっせいに行うと、商品などがコンコースに溢れ、歩きづらく危険すら感じる。このような店は車輪付だから、おそらく仮設の構造物という取り扱いで、建築基準法や消防法あるいは安全に関する法規にも触れないのだろう。車輪付の店舗の中には、2トントラックの荷台くらいの大きさのものまである。
 これらは仮に法規に触れなくても、実際は常時設置されており、車輪がついていることはカムフラージュに過ぎない。最近私の利用する駅にも、車輪付巨大店舗が出現して、端の改札口から出るときには、店や買い物客が障害になり、危険すら感じることがあった。そのうち何かがあったのであろうが、その駅は端の改札口を閉鎖してしまった。店が邪魔になるから、店を撤去や移動するのではなく、改札口を閉めたのだ。
 何百人が通過する、改札口をひとつでも閉鎖するということは、大人数が通過するに必要な時間が延長してしまうので、火事や地震などが起きたときは危険がます。仮設であることは倒れる危険すらある。災害が起きたときこれらが倒れたり、商品が散乱して通行を妨げる危険が大いにある。駅の建設に際しては、おそらく旅客の安全を勘案して、通路の面積や改札の数は決定されるのであろう。少なくともそう期待したい。もしもそうであるなら、通路やコンコースは鉄道会社だけのものではなくすでに公共のものでもあるはずだ。
 税法上優遇されたエキナカの課税が検討されているようだが、政府は税収の面だけでなく、大惨事が起きる前に、エキナカビジネスが引き起こしかねない安全上の問題も点検をして貰いたい。


061028

責任感

 最近ドイツのソフトウエア会社のメンバーと1週間あまり行動を共にする機会があった。ibaという国際的な製パン関連のショウに、彼らが出展するので日本におけるシステムパートナーという立場で、彼らのブースに期間中常駐した。以前アメリカの電機関連販売会社の人たちとも、長期間行動を共にすることを何度も経験していたので、特に違和感はなかった。しかし今回ドイツでの体験は、社員一人ひとりの責任というものを強く感じさせた。彼らも同一行動しているので、日本人の私としてはどうしても、情報の共有はある程度はしているだろうと思ってしまう。同じ部門の者ならば当然知っているだろうと思って、質問するとたいていそれは誰々の担当だから、自分はわからないと言う答えが返ってくる。無論たまたま担当者に質問ができれば、その時点で可能な答えは返ってくる。日本では同じ部門に所属するものには、情報の共有が強要される。同じ情報を持つことが、いわば責務として求められる日本とは大きく異なる。
 ドイツでは、少なくともこの会社では、担当の職務だけ遂行すれば良いようだ。しかも社長から末端の平社員まで徹底されている。私の経験では少なくともアメリカのほうが、チームプレーがあったような気がする。日本では仮にこの会社のような社員がいれば、明らかに問題社員に決め付けられるであろう。考えてみれば、それぞれの担当者が担当の職務を完遂すれば、会社全体は機能するはずだからこれでよいのかも知れない。翻って日本の情報の共有という、いわば金太郎飴の会社運営は、責任の分散にもつながりかねない。例えば誰かが間違いを犯した、しかしそのことは皆が知っていたので、本人だけを追及するわけには行かない。このあたりが日本の会社の、あるいは日本社会の責任の曖昧さを生み出しているのかもしれない。昨今テレビや新聞をにぎわしている官庁、会社、学校など組織の不祥事は、この責任の曖昧さが引き起こしている可能性がある。日本人社会の責任体質改善また個人の成長の面からも、一人ひとりの能力をつけるには、一人ひとりの自立と独立した責任感がより必要ではなかろうか。


WEBメール

 通常のPOP3メールはほとんどがプロバイダーに登録し有料であるが、WEBメールはブラウザーメールとも呼ばれるメールで、電子メールソフトを使わずに、ブラウザー上でWebサーバーに届いたメールをやり取りするものであり。無料で複数のメールアカウントを簡単に取得できるため、状況に応じて使い分けることもができる。しかしこれが曲者で、迷惑メールの何割かがWEBメールを経由して発信されている。
 筆者も毎日数百の迷惑メールの処理に煩わされている。迷惑メール対策のソフトもあるが、簡単にメールアカウントを取得できるので、いくら迷惑メールを指定しても簡単にすり抜けられてしまう。その上、有用なメールが、不要メールに振り分けられることも多々あるので、結局全てのメールをチェックしなければならない。遊びならともかく、ビジネスでは簡単に迷惑メールの設定は出来ない。
 サービスしている会社は、ユーザーサービスで社会貢献事業くらいに考えているかもしれないが、善良なインターネットユーザーがその処理に煩わされる時間と手間、システムへの負荷など、その社会的損失の大きさは予想も付かない。そかも迷惑メールのほとんどは、いわゆる出会い系サイトや性的な薬剤の広告である。それらに添付されている写真は、もしもチラシにして家庭の郵便受けに入れられたら、間違いなく犯罪になるような代物である。中にはその内容が詐欺的なものもあるであろう。無作為に大量に送られてくる迷惑メールのほとんどが、青少年に好ましいメールではない。
 プロバイダーの中には、自らの顧客の中で莫大なメールをうつユーザーがいれば、それなりの対応をするプロバイダーもあると聞くが、大量のWEBメールが野放しにされている限り、その効果も期待できない。WEBメールのサービスを行っている会社にはぜひとも、その社会的責任を考えてもらいたい。善良なユーザーにとって、WEBメールの弊害は、そのメリットより遥かに大きい。



060516

レコード

 この間、学生時代に住んでいた都市に行った。友人との待ち合わせまでに時間があったので、昔よく行っていたレコード店を覗いてみると、その繁華街のアーケード街の中心にあった店は、なんとコンビニに変わっていた。記憶によればその店は立派なビルで1階がレコード売り場、2階は鍵盤楽器と楽譜、3階は弦楽器、管楽器、4階はスタジオだった。そこそこ大きな音楽の専門店だった。何とかお金をひねり出して、その頃その店でよくレコードを買った。当時LPレコードは新譜や有名レーベルは2000から2300円、いわゆる廉価版は1000から1300円であった。当時の生活費は20000円くらいだったので、もっぱら廉価版の中から好みの曲や演奏者のレコードを漁った。その懐かしい店はなくなっていた。
 レコードでも見ようと思っていたので、所在無いままに歩いていると、外資レコード店の大きな看板が眼に入った。誘われるようにその店に入ってみると、大きなフロー一杯にCDが置いてあり、驚くほど安い。思わず衝動買いをした。ふと思えば、自分の住んでいる大都市のエリアでも、レコード店は少なくなった。大きな電器のチェーン店のレコード(CD)売り場も縮小したり、消えていっていることに改めに気付いた。
 その外資のCD店ではCD10枚の輸入全集が1950円と言うものまである。1枚あたり195円になる計算である。日本のレコード会社の廉価版は今でも1000円相当だから、日本のレーベルを売っている店は太刀打ちできないだろう。30年前と比べるとおそらく物価は10倍くらいにはなっていると思うが、当時のレコードとCDを比べると1/5になっている。物価水準から比較するとなんと1/50になっている計算である。これでは他の店は太刀打ちできないはずだ。 一方演奏会の入場料は最近では1万円を越えるものも多く、当時と比べても5〜10倍にはなっているので、物価の上昇分くらいは上昇し、頻繁に演奏会に行けないのは今も昔も同じである。そんな中で音楽愛好家からすれば、往年の名演奏家の演奏が驚くほどの値段で聞けるのでありがたいことではあるが。新進の演奏者のCDは少ないように感じる。このような値段では新たに録音をすることは経営的に難しいのであろう。おそらく少なくともクラッシック音楽に関しては、録音そのものが減っているであろう。
 クラッシック音楽の演奏に関しては、生産が少なく消費のみが行われている。例えばカラヤンやバーンスタインらの、レコードからの印税収入は大変なものであっただろうと想像するが、この大物音楽家の収入が、その後の音楽家のモチベーションに影響を与えたとすれば、消費に傾注した現在の音楽業界は新しい演奏家の育成を阻害し、いずれ枯渇するのではなかろうか。ふんだんに石油を消費する現在の生活に合い通じるものがある。経済中心の現在は、将来文化不毛な時代と称せられるのではないかと心配になる。



060225

地方の振興

 先日1週間あまりドイツを訪問した。仕事の関係で彼地の知人の運転でアウトバーンなどを1000Kmくらいは走っただろう。訪問先はIT関連企業であるが、偶然かもしれないが、いずれもいわゆる田舎で、人口は1万人前後であろう、日本で言えば町とか村とかいう規模に立地していた。ドイツは日本の東京にあたるような大都会はなく首都のベルリンと言へども、東京の3割程度の人口である。したがって中規模程度の都市が多く、全国に分散している。日本のような中央集権経済ではないので、いわゆる片田舎でもこのような企業が存在しえるのであろう。無論日本でも地方にIT企業がたくさん出来ているが、たいていは大都市の仕事の下請け的なものが多いようだ。
 日本では地方の人口の高齢化と減少が問題になっているが、地方の産業の振興を図らなければ根本的には解決できない。日本は余りにも全てが東京中心で、新幹線も高速道路も東京になびいている。ところがドイツでは高速鉄道も高速道路も網の目のようにめぐらされて地方都市間でも交通の便がしごく良い。ICEのような高速鉄道も従来の線路や駅も最大限利用し、アウトバーンにも必要以上の金がかけられていない。日本のように山間部の道路が緑化されたり、肝心の都市部に歩道が無いのに、ほとんど人の通らない道に歩道がついていたり、いたるところにあるサービスエリアも、ドイツではすくなく無駄な金が使われていないように思う。無論、基本的に道路は無料なので日本のようにガソリンも食事も高速道路企業賀が囲い込みをすることもない。地形もなだらかなので、トンネルなども少ないこの1000kmに及ぶドライブでもトンネルは1つしかなかったと記憶する、地形による道路の作りやすさもあるが、必要にして十分なものをドイツは作っているような気がする。日本では公共のお金を利権として取り込む仕組みが、交通などのインフラの整備を遅らせ、地方の振興を妨げたとも言えなくも無い。


060123

萌え文化

 どうやら日本の携帯電話事業が苦境に立っているらしい。携帯電話を作っているメーカー、海外展開を図っている携帯電話会社のいずれも、諸外国のシステムの壁に阻まれ苦戦している。日本の電話会社は日本のマーケットで展開したシステムを、海外に導入させようとしたが、どっこいそれは通用しなかった。海外に投資した莫大な資金が露と消えてしまう可能性もある。日本では携帯電話機を売るために、メーカー、電話会社は、電話機にゲーム機能、着メロ、テレビを見られるようにするなど、若者の喜びそうな機能をつけて彼らを引きつけ競い合ってきた。
 仕事の関係でヨーロッパのビジネスマンに会う、彼から彼の携帯電話を日本で使うためのコンバーターを買いたいと頼まれた、いろいろな人に聞いてみたが、そんなものは日本になかった。彼に言わせると彼が訪れているほとんどの国では入手できるそうである。反対に日本の携帯電話を外国に持っていっても、ほとんどは使えない。日本の携帯電話は電話本来の通信の機能が、諸外国のそれと比べて著しく劣っている。そもそも携帯電話は子供の玩具ではなく、通信手段であるはずだ、現にほとんどのビジネスマンは電話が出来ることと、メールが出来ることを携帯電話に求めている。しかも大切なことは、何処でも使えることである。そう考えるとこの苦境は、物の本質を見誤った携帯電話の開発が起こした不幸である。
 最近マスコミで萌え文化の経済的価値がうたわれているが、それはそれとして価値がないとは言わないが、これは一時の流行ではないだろうか。成熟しきっていない顧客を、喜ばすために日本の企業が開発した携帯電話とそのシステムが、世界で受け入れられず孤立している。物の本質を冷静に判断し、目先の流行ではなく、あるべきこと、なすべきことを大切にする開発をしないと、他の産業も携帯電話の二の舞になる可能性がある。



060105

経済回復と綻び

 大雪には見舞われたけれども、今年は概して穏やかに明けた。正月休暇の交通事故数も減少し、犯罪の増加にも低下の傾向が見られたらしい。ガン黒と言われる奇妙な化粧や、茶髪を通り越した金髪に染めた髪もめっきり減った。株価など経済の回復に伴い、衣食足りて礼節を知るの言葉どおり、日本人も少しは平常心を取り戻したのであろうか。
 しかし、この不況の10年余りの間に、日本人社会の一部が壊れかけてきたように感じる。最近マスコミを賑わす耐震脆弱なビルを作った人たち、金や憎しみなどではなく、殺人を行う人たち、他人の迷惑を顧みることなく、己の利益の為にメールをばら撒く人たち、集団自殺を図る人、それを利用して殺人を行う輩、幼女の殺人、正に常人には理解が出来ない人が増えた。経済の回復では修復の出来ない、綻びが今の日本にはある。そういえば昔に比べて、表情の少ない人が増えたように感じる。他人に干渉しない、あるいは興味のない人が増えているように感じるのは私だけだろうか。今後の経済回復は全ての人に恩恵を与えない可能性が大きい、貧富の差は益々拡大しそうである。今後の経済の拡大に期待をしながら、見落としてはならないものがあるような気がしてならない。


051219

年末雑感

 今年も、もう少しで暮れていく、経済の状況は少しずつ良い方向に向かっているようで、昨年までの年末と比べ、経済の面では、今年は少し明るい気がする。ただそれにしても、殺伐とした事件が多い。特に人間が段々と壊れかけているのではないかと、思わざるを得ない事件が多い。幼女の連続的な殺人もしかりであるが、おそらく欲望を抑制できない人間が増えてきている。世の中便利になればなるほど、ある種わがままが通るということであるから、わがままを通り越して、欲望を抑えられなくなった人間が増えているのは必然であるかもしれない。どうもモラルとかエチケット、あるいは日本人の美徳といわれるものが、相当な速度でなくなっているのではないだろうか。昨今は人の良心に照らして正しいかどうかより、法律に触れているか、あるいは触れていても見つかるか、処罰の対象になるかどうかで、人が行動している気がする。これが経済の活動の面でも現れている。世のため、人のためというのは過去の価値観であろうか。
 例年、今年を象徴する文字が清水寺で発表されるが、今年は「愛」だそうだ。例年なるほどと思うことが多いが、今年はあまりぴんとこない。皆さんはいかがだろうか。


050919

耳無しパン

 食パンなどの、外皮を通常耳と称するが、英語ではクラストと呼ばれる。皆さんの目に留まったかどうか分からないが、英国でこのクラストのないパンが発明されたという記事が、先ほどインターネットに小さく出ていた。英国では2/3の子供がクラストを嫌い、親の1/3は学校に持たせるサンドイッチのクラストを取り除いている。日本においてもクラスト付きのサンドイッチは余り好まれない、というより余り見かけない。この記事によると、今までの食パンからクラストを切り落としたものと異なり、特殊な製法で茶色の固い部分が出来ないように焼いたものらしい。開発メーカーは世界初としているが、一度現物を見て見たいものだ。価格は多少高いらしいが、捨てられる部分と切り取る手間を考えれば、かえって安いのかも知れない。
 日本では食糧自給率の低下の反面、コンビニなどでの食品の廃棄が問題になっているが、消費者の目に留まらないところで、たくさんの商品が工場で廃棄されていることは見過ごされている。工場で廃棄されるものの中に食パンの耳もこの中に含まれるであろう。日本のパンメーカーも耳無しパンの開発にチャレンジして見てはいかがだろう。パンに耳がなければ廃棄される分の輸入小麦量がへり、食糧自給率も向上するはずである。食品技術者の出番である。


050811

スパム王

 スパムメールとは、受信した人が開かざるを得ない、開きたくなる題名をつけて送る迷惑e-メールである。そのスパムメールを年間推計380億件大量に発信する違法行為をして荒稼ぎした、「スパム王」と呼ばれた男が、マイクロソフトから民事訴訟を起こされていた。この裁判でマイクロソフトとこの男は和解し、700万ドル(約7億8000万円)を支払うことに合意したとのことである。しかしながら今後彼は違法メールを送らないと表明したが、過去の違法行為については認めてはいない。 
 筆者のところにも、1日あたり来るスパムメールは50通をくだらない。価値あるメールの数を遥かに上回るスパムメールが届いている。ほとんどがアメリカと日本からのものだ。アメリカのものは、グリーンカードの取得、バイアグラなど薬の販売、海賊版のコンピュータソフトなど物品の販売やサービスがほとんどである。しかし日本のものはほとんどいわゆる出会い系メールで、セックスを売り物とした卑猥な写真付きのものもたくさんある。悪質なものは受信拒否のメールを打たせて、メールアドレスを集めているとも言われている。インターネットの世界が自由な世界であることを願うが、現実にはモラルのない人たちによって、少なくともメールの数から言えば占拠されているとも言える。これらの中には、いわば振込み詐欺のようなものもたくさん有るであろう。自由な社会で有って欲しいが、モラルのない無秩序な社会で有って欲しくない。


050531

勿体ない

 戦後日本の経済が急速に発展した原因の一つに、日本人の「勿体ない」精神の存在が大きいといわれている。確かに省資源や省エネは日本人の最も得意とするところで、今まで石油ショックを乗り切り、現在では世界に誇れるエコカーなどを生み出してきた。ところがこの勿体ないという言葉の本質を外国語に置き換えるのは難しいと言われている。「勿体ない」が、「カイゼン」や「ツナミ」に続いて徐々に国際的単語になろうとしているとの事である。
 「勿体ない」をちなみに国語辞書で調べると、「もっと有意義な使途が有ると思われるので、現在の・むだ(粗末)な扱い方が惜しまれる様子だ。」と記載されている。勿体ないを和英辞書で引くと「Wasteful」とある。逆に「Wasteful」を英和で引くと、不経済な、むだなとある。したがって「勿体ない」と「Wasteful」との根本的な違いは「勿体ない」は、ただの不経済とかむだという物質的なむだでだけでなく、むだ(粗末)な扱い方が惜しまれるという精神的なところであろう。
 昨今の日本人の行動を見ていると、「勿体ない」を理解できない、あるいは気に留めない人たちが増えているのではなかろうか。例えば多くの若い人は、平気で床に、あるいは地面に直接座ることを気にしない。高校生の多くは革靴をスリッパのように踵の部分を折って履いている。新品のジーパンをわざと切り裂き穴を置け古着然としてきている。究極は新品のジーパンに穴をあけ、ペンキで汚し、わざわざ古着のようにするビジネスもあるらしい。服が汚れれば洗濯の回数が増え、洗剤や水が余分に必要になり、生地も傷むので、我々の子供時代には服を汚して帰ればよく母親から叱られたものだが、今は如何なのであろうか。高価な革靴を傷める履き方に心は痛まないのであろうか。「籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」という教えが、あるが正に死語になっているのだろう。物を大切にする心が失われようとしている。
 もしも、「勿体ない」精神が日本発展の一つの原動力であったならば、今は憂うべき状況であろう。このままで日本の将来は安泰であろうか。


050507

ジャンク債

 昨日の新聞に、GMとフォードの信用格付けが投機的水準(利率は高いが、リスクも高い=ジャンク債)に格付けされたと掲載されていた。単なる私企業のS&Pによるものなので、公的には特に意味ないかもしれないが、数年前日本の企業もこの格付けに泣かされた。GMとフォードはクライスラーを加えて嘗てはビッグスリーと呼ばれ、日本企業の手の届かないあこがれであった。クライスラーは格付けが十数年前にすでに投機的に下げられ、昨今はドイツの会社の傘下である。
 今回GMなどの危機の直接原因は企業年金である。数年前に日本でも話題になった金融的企業年金である。皮肉なことに彼らの金融子会社は好況であるという。短期的利益追求を目指したため、製造業の本来の使命である、安全性、省エネ、品質、コスト競争力などの価値の創造を怠ったために、消費者から見放されたのが最大の原因である。
 電機産業はすでに壊滅している。例えば20年も前にアメリカには、民族資本(アメリカ)のテレビ製造会社はほとんどなくなっていた。最後のメーカー、ゼニスも確か韓国企業に買収された。世界最大のテレビ大国にあるテレビのほとんどは、日本製、韓国製であった。これも最近はアメリカ、日本、韓国ブランドの中国製と中国ブランドで占められている。アメリカから製造業がなくなる。最後の砦であった自動車も危機を迎えているようだ。
 90年代以降アメリカ経済はIT革命で息を吹き返したが、製造業は衰退していった。セイリングパワーに任せた販売業や金融業など第3次産業頼りの経済の行く末を示しているように思えてならない。価値の創造という言葉があるが、価値は創造されるものである。価値は創造されるもので有り、売買されることによる価値の増加は、見かけの価値の増加か、錯覚である。これには我々日本人は土地バブルでさんざん経験したはずだ。
 お金の動きは価値の移動に伴う、受動的な流れの静脈のようなものだと思う。しかしながらこれが動脈になってしまうと、金融に有形無形の価値を創造する製造業などが振り回されてしまう。価値は創造によって生ずる。農業、漁業、鉱工業、創作活動など、価値を創造する部分を大事にしなければ、経済は行き詰まる。金融は社会経済の潤滑油であって、パワーの元ではない、金融などに振り回された国の将来は暗いと思う。


050124

あまりに日本的な

 青色ダイオート訴訟で和解が行われた。東京高裁での和解金は総額8億4千万円となった。この訴訟は現在カルフォルニア大学の教授である中村氏が、以前の勤務先である日亜化学工業で発明し、同社が特許出願し、97年に登録された青色ダイオード製造技術の職務発明貢献度の評価に関する問題である。日亜はこの発明により売り上げが大きく伸び、多大な利益を得た。2001年、中村氏が特許の帰属と発明対価として、日亜に200億円の提訴を東京地裁におこなった。
 東京地裁は昨年これに対して日亜化学の独占利益を1200億円として、中村氏の貢献度を50%に算定して発明対価を600億円とし、日亜に請求どおりの200億円を命じた。職務発明をいくつか行い、また特許の権利の訴訟にも、技術者として関与した経験のあるものとして、この金額に対して余りに大きすぎるとの感覚を持っていた。確かに大発明は根本的なものであり、その貢献度は大きなものであるが、発明に至る環境整備、スタップの経費、また特許そのものの効力は技術者のみで完成されるものではなく、弁理士費用をはじめ会社の出費をともなう。また出願された発明のうち、実効を持つものはわずかであることも事実である。成功例単独での評価は問題があろう。また発明だけでは物は作れず、製造設備の投資に対するリスク、販売の経費などを見れば地裁の示した、いわば終身雇用のリスクを伴わない社員の発明の貢献度50%との判決はあきれるしかない。
 しかしこの東京高裁の和解金額は、超一流プロスポーツ選手の年俸に過ぎない。超一流研究者の価値がどのくらいであるか、真剣に検討すべきではなかったのではなかろうか。超一流選手は現在の能力で評価できるが、超一流研究者の卵の能力は、時間がたたないと評価されるべき結果が出ないので、現時点で評価が難しい。誰が一流で、誰が並みの研究者か判断できない中で給与は支払われている。世界的発明をなした人の長年にわたる評価が、スポーツ選手の1年分の報酬と同じというのも寂しい。勉強するより、スポーツ選手を目指して鍛えた方が、遥かに高い年俸を得られる可能性が高い。昨今の学力低下とまんざら無関係とは思えない。議論すべき事柄を和解という曖昧な結果を下したことにも問題がある。しかも和解金額を貢献度で判断するとなれば、発明者の貢献度がわずか1%に満たないというのも理解しがたい。裁判所で議論できなければ、日本人はどこで議論できるのであろうか。この和解は日本の将来に大きな問題を残すであろう。


041230

踊り場

 2003年春からの経済回復も、ここに来て踊り場に差し掛かったと言われている。中国経済の動向やアメリカ財政、家計負担の増大から来る国内消費の減少などが、経済に及ぼす影響が取りざたされている。これらの懸念に勝る日本経済の自律回復力があるかどうかが鍵になる。経済の拡大は生産性の向上によるもの言われている。蒸気機関の発明に伴う、産業革命などがその好例であろう。この対極は変革を抑制した、江戸時代の経済が、勿論景気の波はあったが、260年余り経済の拡大がほとんどなかったことである。いかに生産性の向上が経済の繁栄に大切なものであるか判る。
 経済の拡大は投資(投機)によってもおこる。日本の土地バブルはよい例であろう。土地の価値(土地の生み出す収益(生産性))は変わらないのに、資産価値のみが上昇して、ついに破裂した。古くはオランダのチューリップバブル、近くはアメリカの、実力以上の価値創造を妄信したITバブルがある。日本でも例えば、初期の道路開発のように、直接産業の生産性に結びついた投資は経済を拡大したが、人よりも動物の通る数が多い高規格道路の開発は、生産性の向上に寄与しないので、経済上は散財以外の何者でもなかった。
 今回の経済回復は、好景気のアメリカと中国への輸出の増大と、リストラなどによる利益の分配を変えたことによってなし得た企業の収益力の回復であり、生産性の回復によるものではないことが推察される。生産性の向上による経済回復がなされなければ、本当の意味で経済の回復はない。数年前日本の産業は、海の産業(海外貿易で繁栄している)と山の産業(国内商売だけで停滞衰退している)で構成されていると言われたことがあるが、果たして現在、山の産業の生産性は、当時と比べてどれでだけ向上しているであろうか。今年(2005年)こそは生産性の向上に、取り組まなければならない。さもなくば、踊り場が下りの起点になる可能性がある。生産性を向上して、実質の国民所得を増大させなければ経済回復はない。


041220

長嶋ジャパン

 先日、テレビを見ていると、アテネオリンピック日本野球チームの敗因を分析していた。日本チームは期待はずれの銅メダルであったが、直接の敗因は野球小国のオーストラリアチームに負けたことである。日本チームは、欠場した長嶋監督自筆の3の数字が入ったユニホームを旗印に戦い、オーストラリアチームは徹底的に日本チームを分析して、勝つための試合運びをした。その結果、ご存知の通りの敗北となった。その結果はほとんどの国民の期待とは異なるものであった。 野球には、門外漢の私だが、おそらく世界で2番目のプロ野球を持っている日本の、しかも選りすぐりの選手を集めた日本チームのほうが、おそらくチームとしてはオーストラリアチームよりは数段上であったであろう。確かに、日本はチーム分析の情報戦で負けた。しかし本当は、試合以前に負けていたのではないかと思う。
 日本では、物事を進めるために、事の成否より、口の挟めぬ体制作りに、腐心されるような気がする。言わば錦の御旗である。その旗の下では、異の唱えようがない。そのために、事の本質と違うところで物事が進んでいく。観念的な情緒によって、物事が判断されることが多い。スポーツの本質は、勝つために向かって進むものであるが、残念ながらその前に前提があった。これが最大の敗因であろう。
 政府や、自治体、財団法人、旧体質の企業などの、役員会や委員会の類もその例に漏れないのではないだろうか。日本も早く、名前より実を取る体質にならなければならない。物事は事の本質に基づいて進めて行かなければならない。体質の改善こそが、日本の未来を明るくと確信する。


040826

放置自転車

 最近途上の地下鉄の入り口に隣接する公共の建物で工事があった。そのため地下鉄入入り口の周辺に放置されている全ての自転車に、指定の期日までに移動するように勧告のテープが貼られた。ところが指定の日が来ても、半数近くの自転車はテープが貼られたままで相変わらず放置されていた。いくら物余りの時代とはいえ、毎日通勤に使っている自転車が、撤収されたら、困るであろうから、これらの自転車は盗難の上、放置されていたものであろう。一例に過ぎないかもしれないが、放置自転車の何割かは盗難された自転車である可能性もある。そういえば放置自転車のうちの何台かはハンドルがなかったり、タイヤがなかったり、めぼしい部品がなくなっているものさえある。
 この例からみると、放置自転車は犯罪の痕跡である可能性がある。我が家でも何台か、自転車が盗難にあった。しかも皆新しいうちである。以前よく日本から海外に自転車を輸出する写真が新聞に載っていたが、私の周囲で自転車を中古車として売った話しは聞いた事が無い。あの輸出される自転車の山の大半は盗難車ではないのだろうか。
 ニューヨークが犯罪の街から、立ち直るのに、ジュリアーニ元市長の英断で落書きを消していった。明らかにその結果は出ているようだ、小さい犯罪を無くす事が、大きな犯罪を防ぐ事になるという。日本の街は放置自転車をそのまま放置することは、出来ない時期が来ていると思う。行政の迅速な対応を望む。例えばICチップで自転車を管理することも、可能であろう。そうすれば盗難車を売買する事も難しくなる。


040709

肥満

 この春肥満が国際機関によって疫病に指定された。元来疫病は悪性の伝染病のことを指し、コレラなどがその代表である。お腹のふくらみでは人後に落ちないので、肥満に関しては少なからず関心がある。そういえば最近、町を歩いていても、関取かと見まがう人と時々すれ違う。男女ともいるが、どちらかといえば若い人に多い。いわゆる中年腹(リンゴ型)とは少し違う肥満で、アメリカなどで多く見られる。西洋梨型といわれ下半身に脂肪がたっぷり付いている。子供たちにもかなりいる。疫病と言われるのは大きな健康障害が起きるからである。人類の行く末が案じられる大きな問題だ。
 最近の経済発展により、過剰な栄養エネルギーに加えて、交通機関や機械などの発達による利便性の向上により、力仕事などの労働を含めた運動量の減少によるもの、と考えられる。おまけに子供たちの遊びまで外遊びから、テレビゲームなどの家遊びに変わったことも大きな原因の一つであろう。
 人類の歴史は飢えとの戦いだったと言ってもいい。先進国であっても十分に庶民が食事を取る事が出来るようになったのは、ここ100年にも満たない。従って人類は少ない食糧を有効に生かすために、遺伝的に肥えやすい体質に作られてきた。食べ物に対する好みも、特に肥満の元になる脂肪や糖質をおいしく感じるようにプログラムされている。
2つの因子がこれをつかさどっているとのことである。ほとんどの人がこの2つの肥満因子を持って生まれてくる、すなわち肥えやすい体質で生まれてくる。飢えと戦った2つの遺伝因子を持った人間が、過剰に栄養を取れば即座に肥満になる。肥満との戦いは人類の長年の飢えとの戦いによって得た獲得形質との戦いである。


040503 LED

 車内での携帯電話による通話が他人への迷惑や心臓ペースメーカーへの影響から問題視されてきた。k加えて、最近電車での携帯電話の使用について新たな問題が生じている。青色ダイオードの商品化以来、発光ダイオード(LED)でほとんどの色が発色できるようになり、携帯電話についているLEDの色も、にぎやかになった。携帯電話によるEメールが難聴者の役にずいぶん有用である事を聞く、着信を知らせるために携帯電話のLEDの発光も必要なものであろう。
 電車の中で多くの人が携帯電話を操作しているが、案外通話をしている人は少ない、携帯電話を操作するたびにLEDが点滅している。最も多いのはメールのやり取りのようであるが、結構多いのが携帯でゲームをしている人である。どうやらゲームで携帯電話を操作するたびに携帯電話の外側のLEDが発光するようである。この発光はゲームをしている人には見えないから、携帯電話メーカーが何のために発光するように設計したのか、分からないが周囲の人には迷惑千万である。
 特に、電車の中では視線の範囲は限られているので、顔の前で、携帯電話でゲームをする人がいれば、づーとLEDの点滅発光が、いやがうえにも目に入ってしまう。
 以前ポケモンで問題になった光感受性発作が起きるほどでもないにしても、フリッカーテストを電車に乗っている間中、繰り返されていうようなものだから、ほとんどの人が苛付いてしまうだろう。電話機のメーカーに不要なLEDの点滅について再考を望みたい。電車の中では音だけでなく、光も静かにしてもらいたい。


040325

金太郎飴

 交差点の中に警察官が何人も立っていた、余り多かったので数えて見るとなんと9人もいた。何事だろうと見渡してみても大事件が起きている様子もなく、警察官の数以外は通行人の行き来も平静だった。交差点の中心が見える所まで来ると、自動車のライト類の破片だと思われるような物が散乱していた。交通事故があったのだなと思いながら歩いて行った。事故の処理に来ていると思っていたパトカーのそばを通り過ぎようとした時、何気なくパトカーのほうを振り向くと、パトカーの前部に幌のようなものが掛けられており、その隙間からパトカーの前部がつぶれているのがわかった。パトカーの過失があったかどうかわからないが、パトカーが絡んだ事故があったようだ。
 これで状況の理解が一挙に進んだ、パトカーの絡んだ事故だったので、大した事故でもないのに、警察官が集まって、あるいは集めていたようだ。事故の検分をしているときに、死亡事故等の大事故でもないかぎり事故車両にカバーが掛けられているのも見た事が無い。もし自分が交通事故を起こして、自分の車に何か掛けたら警察は許してくれるのだろうか。
 こんなところに警察独特の集団帰属意識と閉鎖性が見え隠れする。昨今問題になっている警察官の不祥事や裏金作りの処理にも、この体質が関係しているのかもしれない。しかし、この特性は警察だけではなく、日本人固有の特性なのかもしれない。古くから和を持って尊しとなすと教えられてきた日本人は、自分の属する集団を非常に大切にする。昨今の、日本の活力の衰えは、日本人の過剰な集団への帰属意識と独立心の無さによるものと分析している人もいるが、私もその影響は大きいと思う。公務員のいわゆる省益や天下り体制もそうであろう。戦後の社会が生み出した、組織に対する帰属意識の強い金太郎飴型人間ばかりでは新しい社会を作るのは難しいのかもしれない。


040216

コンビニエンスストアー

 町のいたるところ、郊外の幹線道路沿いなどにたくさんのコンビニエンスストアー(コンビニ)が開店している。さすがに競争が激しいと見えて撤退する店も散見される。コンビニエンスとは便利という意味で、24時間開店し、とりあえず欲しいものはそろっていて、しかも程ほどの距離にあることで、消費者の利便に供している。しかし便利ということは、ある意味で我がままを聞いてくれることにほかならない。従来なら世が明けるまで手にすることが出来なかったものが、深夜にでも買う事が出来る。
 我がままを聞いてくれる過剰のサービスが、日本人の人間性をゆがめている可能性がある。言いなりになって育てられた子供の行く末に問題があるように、コンビニの客の中に問題のある人たちが発生しても驚くにはあたらない。新聞で読んだ記事の中に、突然店員の態度が悪いといって切れる人が増えているとあった。
 最近コンビニ強盗が時々報道されるが、この犯人たちはコンビニを使った事がない人ではなくて、どちらかといえば頻繁に利用している人たちではなかろうか。あまりに便利であるがゆえに、みさかいがなくなって、犯罪につながっている可能性もある。人間には不自由を我慢することが必要だ。売り手にも買い手にも節度が必要ではなかろうか。


040204

消費不況

 昨今日本の経済も少しずつ回復指標が現れてきたが、生活者としての実感のない人が多いのではなかろうか。現在は消費不況だと言われている。皆欲しいものがないので物を買わないとも言われている。反面液晶テレビやデジタルカメラやDVD機器はかなり売れており、今後も販売高が上昇すると予想されている。
 これらは新しい商品で、10年前にはなかった商品である。新たな価値を創造した商品のみが売れているのであろう。しかし液晶を取ってみても私の記憶では30年以上も前から生物学の本に出ており、イカの墨が液晶の性質を持っているというのを学生時代に読んだ事を記憶している。30年以上の歳月を掛けて液晶テレビに到達したのである。当時既に液晶テレビ(壁掛けテレビ)が未来の商品として予言されていた。
 バブルの最盛期、お客様は神様という言葉が流行した。顧客の要求を満たしていけば必ず商売は成功するとの意味であろう。しかし顧客の声をいくら一生懸命聞いても液晶テレビは出来ない。顧客が新し物(今までない物、新しい価値を創造する物)を求め、それが売れるのなら、顧客の意識を超越した概念で商品を開発せねばならない。もちろん顧客の意見は大切だが、素人には発想できない商品を開発しなければメーカーは生き残れないのかもしれない。
 電機業界は10年後、20年後、30年後こんな商品が出来るだろうと予想して、製品が出来る前に消費者をリードしてきた。製品が開発される頃には消費者もこんなものが欲しいと要求し、開発の速度と消費者の意識が一致したときに商品が売れるのであろう。翻って10年後、20年年後いや5年後こんな商品を出しますと予言できる業界が他にあろうか。メーカーは消費者のニーズ(想像力)を越える商品を開発せねばならない。


040105

ミニスカート

 昨年、鳥の歌はスレートの欠片で始めた。生活実感はあまりないものの、昨年の年初めと比べて、新聞紙面には景気の回復を示す記事がすこしづつ増えてきた。街には好景気に流行するといわれるミニスカートが増えてきた。この説が正しいかどうかはわからないが、確かにミニスカートが目に付く。そう言えば、かつて目に付いた山姥化粧も消えてしまったし、ルーズソックスもめっきり少なくなった。スラックスの上に、スカートを重ね着したり、カーテンのようなレース布を巻いたり、やたらとひらひらしたものを取り付けたような、奇妙なファッションもいつの間にか消えていたような気がする。またブロンドや赤毛のような派手な毛染めも少なくなった、毛染めは相変わらず流行しているようだが、日本人がずいぶんと落ち着いて来たように感じる。
 社会全体に落ち着きが少し戻って来たのかもしれない。日本経済がグローバリゼーションの波に巻き込まれ、繁栄が突然崩壊して右往左往していた日本人が、ふと我を取り戻し始めたのだろう。そう言えばアングロ・アメリカン的な経営だけでなく、日本的な経営のよさも見直され始めてきた。こんな流れを今年は着実に物にしなければならない。しっかりと自分の足元を見つめて、勇気を持ってなすべき事をおこない。今年も国内外の予想される、あるいは予想もできない事態に、日本社会は振り回されると思うが、個人個人が自らの価値観を信じて、思うところをやり遂げることが求められる一年であろう。それが日本社会の復活につながると思う。


031129

コンサートホール

 最近数ヶ月前から楽しみにしていた当代随一のチェリスト、ミーシャ・マイスキーの演奏会に行った。キリストのような風貌の彼が、チェロ曲の旧約聖書といわれる、バッハの無伴奏チェロ組曲を弾く姿は、その演奏とともに感動を与えた。演奏会は市制100周年を記念したホールで行われた。そのホールは外壁を全てタイルで覆われ、ユニークな外観を持つホールである。
 演奏の開始とともに、ヘッドホーンステレオを聞く人がそばにいるような、小さなかさかさという音が気になった。その音は気付く人も、気付かない人もいるくらいなかすかな音だった。3番、2番と演奏が進んでいった。休憩を挟んで6番の演奏が始まって、数小節のところで彼は演奏をやめてしまった。観客が大きな音を立てたわけでもなく、特に彼に演奏上の問題があったとも少なくとも私には思えないのに、演奏を止めてしまった。ほんの数秒の後、何事もなかったかの様に演奏は最初から再開された。 無論私には彼が演奏を止めた理由はわからない。それまでの曲と6番は明らかに違う響きをしている。それはA(ラ)線が多用され、運指のポジションも高い。すなわちチェロ曲としては高い音域の曲である。この音域で弾かれるとホールがかさかさと鳴り出すのである。ホールのサイドに位置するところで聞いていた私の左耳には、実音が右耳にはかさかさとなるしかし実音のメロディーに沿った反射音が入るのである。いながら無伴奏チェロソナタがデュオソナタに聞こえたのである。2階席の覆いの鉄板が共鳴しているのではないか、おまけに人が歩くと席全体が振動する。
 今までいろいろなホールで演奏を聞いたが、残響が長いとか短いとかのレベルではなく、ホールとしては、このホールは音響的には問題がある。しかも隣の中ホールのリズム楽器音が、これもかすかにではあるが聞こえる。観衆に聞こえるのであれば中ホールと背中合わせに演奏している演奏者の耳にはもっとはっきりと聞こえていただろう。静寂の闇を切り裂くような曲の演奏をこのホールでするのはやめた方が良い。
 建築家は自分のオリジナリティを出すために、ユニークな構造のホールを作りたがる。しかしホールは聴衆のものであり、演奏者のものである。あるいは楽器ともいえる。ホールを設計する方にはその本来の目的である。音響設計に注力していただきたい。聴衆にとってはホールの外観より、音楽そのものを楽しめるかどうかが重要である。アンコールで弾かれた1番のプレリュードはカザルスのそれの1.5倍くらいの早さと感じるほど、いっきに弾き切られた。感動の演奏会だった。


031025

開かずの踏み切り

 東京の中央線の開かずの踏切が問題になっている、その事に関して列車運行部門と工務施設部門との連携の悪さが、マスコミで取り上げられている。日本の組織のどこにでもある縦割り組織の弊害であろう。私の身近なところにある踏み切りでも、JR(西日本)と私鉄の、警報機が鳴り始めて列車が来るまでの時間を比べると、測ったことはないがJRのほうがはるかに長いと感じる。おそらくJRにたずねればこれは安全を維持するために必要な時間と答えられるであろうが、お上意識の抜けないJRはこのとき道路交通をどのくらい阻害しているか、別な言い方をすれば、迷惑をかけているか考えて(考慮して)はないであろう。
 陸の王者電車は、大名行列然と道路の自動車や歩行者をひれ伏せてまたせている。これは当然なのである。この点では私鉄の踏み切りの方がまだ良い場合が多い。今や陸上輸送の主役は鉄道だけではない、自動車輸送の比重は極めて高い、にもかかわらず、電車が通るときはいつでも全てのものを止めてよい法律になっていることが問題なのではないだろうか。無論重量が大きくて長い列車を簡単にとめることは困難なので、列車優先なのは当然(仕方ない)にしても、ダイヤを作るときは踏切などの他の交通利便にも考慮しなくてはならないなどの但し書きが必要なのではなかろうか。もしそうであれば今回のようなことは起きていない、鉄道の運行者に他の交通への配慮がなかった最大の原因であろう。
 現実的な方法論で言えば、鉄道の運行者はダイヤを組むときに、いかに列車を効率よく走らせるかを最大の目標として組んでいる。いま新たに陸橋などの建設、駅構内の無料通行などが、泥縄で論じられているが、この対策は言い逃れ対策である。高架の工事が終了する平成17年まで続けられる対策ではない。
 ダイヤを作るときに、踏み切りの遮断時間を考慮してダイヤを組むべきである。ダイヤはすなわちスケジュールであるから、スケジューリングの評価項目に踏み切りの遮断時間を入れてダイヤを作れば踏み切りの通行時間は確保される。世界一過密なダイヤを作れるJRであれば、その気になれば出来るはずである。踏み切りの通行時間の確保こそが真の解決策である。


031001

肥満

 食欲の秋になった。自身肥満を気にしなければならない年になったわけだからではあるまいが、最近極端な肥満な人が目につくようになった。いわゆる西洋梨型肥満である、中年男性に多いおなかが出たリンゴ型肥満とは異なる、下半身まで脂肪がついた西洋梨型の体形の肥満である。日本では過っては余り見られなかった。片やアメリカで90年頃までよく見られたが、最近では少し減っているのではないかと感じる。
 日本でこの体形が増加したのはアメリカ並みの脂肪含有の高カロリー食がひろがったことの証であろう。高カロリーのスナックやいわゆるジャンクフードがアメリカ並みに蔓延したことと、力仕事が減少し、テレビゲームで子供たちが外遊びをしなくなったなどエネルギーの消費が少なくなった、いくつかの要因が組み合わさっての現象であろう。
 90年頃アメリカでは肥満な人は昇進させないという風潮があった。その理由は肥満の最大の理由は自己管理力の欠如であり、自己管理できない人が他人を管理する事など出来ないという理由であったと記憶する。そのことが人々に自己管理の必要を迫ったことにより、極度の肥満があまり町で見かけられなくなったのだとおもう。90年のころのアメリカといえば、もっともアメリカ経済の低迷した頃であり、バブルの残照で華やかだった日本と好対照な時期である。その後アメリカの経済はIT革命により復活した。そしてアメリカ人は日本人よりもっと働くと言われるようになった。
 今の日本はちょうどアメリカの当時の経済状態に似ている。もし自己管理の欠如によって肥満がおき、自己管理の低下が一国の経済の低迷に影響するのなら、他山の石としなければならない。最近の犯罪の中でも通りがかりの引ったくり、わずかな金品欲しさの自己欲望のために、人の命をも顧みない犯罪など、程度の違いと行動の違いはあっても肥満と同様な理由で発生している。人間集団で生きていくためには自己管理は極めて大切である。肥満の原因がここにあるなら、肥満も社会弱体化の警告の一つなのかもしれない。


030912

満員電車

 人は自らが快適に感じるエリアを必要とする、すなわち人と人との間には心地よい距離が必要になる。他人同士ならこの距離は広く、親密な間柄ならこの距離は近くなる。電車を待つ列やベンチシート型の椅子でこのことははっきりと現れる。電車ではすぐに込むとわかっていても、今込んでいない限り他人同士は距離を置いて座る。ところが恋人同士であればいくらすいていても接近して座る。この距離で二人の間柄がわかる。もちろん同性でも親密度でこの距離が変わる。概して女性の方がこの距離は広いようで電車を待つ列の女性の間隔はたいてい広い。ところが電車が来るなり豹変して、ひどく押されて後ろを振り向くと女性である場合が少なくない。
 狭い国で生活している所為か、日本人は体が触れたり、鞄などが相手に触れたりする事に案外無頓着である。アメリカ人と仕事をしていると、時々理由もなくソーリーと言われることがある。改めて考えて見ると、相手の体(あるいは持ち物)が軽くこちらの体に触れたようだ。こちらが気のつかないくらいの程度でも、何かをあてれば(良識ある)アメリカ人は謝ってくる。雑踏や電車の中では日本人はどんどんぶつかってくる。しかもぶつけた当の本人は何食わぬ顔で立ち去っていく。無作法であるようにも思うが、案外意識外の行為であるかもしれない。
 もちろん悪意がないという前提においてだが、この日本人とアメリカ人の差はパーソナルゾーンに対する許容度の差かもしれない。そういえばアメリカには日本のような満員電車はないと聞く。日本人は子供が生まれると、親子が川の字になって寝る家庭が多いと思うが、アメリカでは添い寝の習慣は余りなく、生まれたときからベッドにひとりで寝かされる。こんな乳児体験が日本人に満員電車を許容しているのであろう。


030827

円=6角形

 日本の教育問題の典型でよく取り上げられる事柄に、円周率の問題がある。 円周率は我々の時代は3.14・・・・・・・・と習ったが、最近は小学校では3を使うらしい。おそらく3.14では計算が複雑になり、理解が難しいからという理由であろう。それで3.14・・・を四捨五入して3にしたのであろうが、これにはまさに大きな問題である。円周率というのは、直径が1の円の周り(円周)は3.14・・になるという比率である。 すなわち直径1の円周は3.14・・になる。ここで3を使うと極めて大きな問題が発生する。直径1の円の中に一辺が0.5の正三角形を六つ放射上に並べる、解りやすく言うと一辺が0.56角形を円に内接させることになる。このときの6角形の一辺は0.5であるから、外周は0.5×63となる、すなわち6角形の外周は3になるのである。
 直径1の円周が3と学んだ子供は、1辺0.5の6角形も3となり将来矛盾が生じてかえって混乱するのではなかろうか。円周率3はむしろ数学(算数)嫌いを作るのであろう。際限なく続く少数はどこかで四捨五入しなければならないが、有効な桁数の概念を無視して、円は6角形と同じ外周であるというような考えは間違いである。解りやすく一桁にするのはかえって混乱を生じる。
 最近言葉を略すのが良く行われるが、例えばITはInformation Technologyであるが。3はけっして3.14・・ではない。3は絶対に3でしかない。ものの本質を忘れた単純化は、大きな問題を作る。


030725

多目的側道

 少し前まで話題にあがっていた施設に農道空港がある。通常は農道として使う道路を拡張整備して空港として使用し、特産農産物を新鮮なうちに大都会に輸送し、有利な取引条件で農村経済の活性化につなげるといった目的のものであった。 一日に1便あるいは数便であっても、場合によっては0便でも空港である。その実態はとにかくとして、空港とよばれている。
 最近歩道と呼ばれている側道は歩行者のほか、自転車、電動バイク(イリーガルであるが)、放置自転車・バイクによる占拠、違法駐車、商品の売台、荷物の積み下ろし場、自販機の充填スペース、ごみ置き場、たて看板、幟等々多目的に使われている。最近の歩道の王者は自転車で、猛スピードで歩行者を避けながら走っている。しかしよく見るとよけているのは歩行者で危険きわまりない。飛行機が来ても来なくても飛行機の離発着機能があれば農道ではなくて空港であるのなら、歩道を歩道と呼ぶのは矛盾があってせいぜい多目的側道とでもよぶべきであろう。
 歩くという動作は人類が誕生した当初から持ってきた基本的な権利で、なによりも優先すべき権利であると思うが、大阪の歩道ではこれはままならない。バリアフリーの名のもとに道路のいたるところに傾斜があって歩きづらい事この上ない。足を怪我でもしているとこの傾斜が本当に危険だ。大阪よりもニューヨークの歩道の方がよっぽど安全だ。中国の大都市でも確かに大通りを横断するのは危険極まりないが、歩道に関しては大阪の歩道よりはよほどましだと思う。自転車は車道を走っている。
 折からの経済不況で、特に消費不況が叫ばれているが、こんな歩道で誰が、買い物をしたいと思うのだろうか。かつては銀ブラなる言葉があって、ゆったりと歩いて買い物を楽しんだが。現在大阪の幹線道路の歩道でゆっくりと買い物を楽しめるところがあるのだろうか。商店街の衰退が問題になっているが、この当りの影響も無視できないのではないだろうか。歩道は誰が管理しているのだろうか、無法地帯化している。歩道は歩行者に取り戻そう。


030705

エスカレーター

 かつてはエスカレーターの上では人は立ち止まって昇降をしていたが、都会人の気ぜわしさかエスカレーターの上でも歩いている人は多い。無論中には立ち止まって昇降する人もいるから、歩く人には障害になる。その障害を取り除くために、暗黙のルールがあって立ち止まる場合は、東京では左側、関西では右側と言う風になっているようだ。東京と大阪の間の名古屋はどうも東京と同じルールのようだ。 ところがどうも東京や京都、新大阪といった新幹線の駅では、駅にいるのが地元の人が過半を占めるわけではないので、このルールは壊れることが多い。駅は列車に乗り降りするために皆集まっているために、当然時間に追われるとエスカレーターの上さえも走らなければならない場合がある。ところがこのルールはこれらの駅では壊れている事が頻繁に起きているためにいくら急いでも先にいけないことがある。特に旅行者は大きな荷物を持っていることが多いのでなおさらである。
 いっそのことこの立ち止まりルールを統一してはどうだろう。もちろん法制化する必要は無いが、いわゆる習慣的ルールとして明らかにすれば駅などの通行がかなりスムーズになると思う。もしもローカルルールを変えることに抵抗があるようであれば、エスカレーターの侵入口にこのエレベーターで立ち止まる場合はどちら側とでも書いておいたらどうであろう。かなり混雑が解消される。ローカルルールは地元以外の人にはわかりづらいので、こうすれば一番恩恵を受けるのは地元の人であろう。
 
かつて大阪の民放でトイレで待つときは入り口に1列で並んで待とうというキャンペーンをしていた事があるが、この効果はそれなりにあったと思う、誰かがイニシャティブをとってルールを整備すれば都会も生活しやすくなる。



030614

新古本

 学生時代、当時の南ベトナムからの留学生に羨ましがられたことがある。その頃はベトナム戦争のさなかで平和のことかと思えば本の種類のことだった。彼が言うには旧南ベトナムのみならず多くの発展途上国では母国語で高等教育の勉強出来ないと言う。日本人はどんな領域の研究でも母国語である日本語で勉強できる。確かによほど特殊な領域でなければほとんどの学問領域で日本語の本がある。英語のテキストも使用したが、これは英語の論文を読みこなせるようにとの教師の配慮によるものであったような気がする。
 私が育った人口20万人たらずの地方都市でも専門書を売る本屋が数軒あって、それらの梯子をすればとりあえず必要な本は入手できた。ところが近年これらの書店が消えて行っている。気がついて見残った本屋は漫画雑誌本屋に変わってしまっている。本棚の半分くらいは漫画という本屋はいくらでもある。 最近読んだ本によると、言語別に書籍の世界の出版点数の比率を比べると、英語の本28%、中国語13%、ドイツ語12%、フランス語8%、日本語5%となっているらしい。この5言語で世界の書籍出版点数の2/3になる。これではこれら以外の言語を母国語としている国々では本の入手が難しいはずだ。
 最近たくさん売れる本ほど良い本だという説がある。確かにその一面はあると思うが、本屋に並ぶ本が山積みされたベストセラーと漫画ばかりになると、出版点数が増加しても読者の目に触れる点数は減っていく。事実おびただしい新古書が廃棄されているらしい。これは廃棄物の問題にとどまらず、将来の出版点数の減少に繋がる恐れがある。ひいては日本の文化の多様性を減少させる恐れがある。文化の多様性喪失は国家の盛衰を左右する。 悪本は良本を駆逐する、どこかで聴いたことがある。



030602

節度

 日本人だけではないと思うが、経済的繁栄を経験すると、どうも節度を失うらしい。 行き過ぎた土地投機、駅前の放置自転車、山姥化粧、消費者金融への過剰債務、ルーズソックス、ゲーム脳、パラサイト症候群、携帯電話の使いすぎなどなど、ここ十年ほどでも枚挙に暇が無い。 節度とは、欲望を理性でコントロールすることだと思うが、自分を良識で制御できない人が増えているのは確かだろう。犯罪も変わってきた、貧乏や金銭が欲しいといった理由でないものが増えてきている。通りがかりに人を切りつけたり、手当たりしだい放火をして回るなどの、自分を良識で制御できないことによる、と思われる犯罪が多発している。
 自分をコントロールするという事で、78年前くらいにベストセラーとなったEQという本の内容を思い出した。要約して書けば、幼児を部屋に入れ、お菓子を前に置き、しばらく我慢したらもう一つ上げると約束して、一定時間幼児を一人にするといった心理学の実験だ。無論我慢できた子も、我慢できなかった子もいる。その後、この幼児達が成人になる頃、追跡調査を行ってどんな風に成長しているかを確かめる。するとその結果は歴然で、我慢できた子の集団の大半はより良い大人になっていて、我慢できなかった子の集団は問題のある大人になっている人が前者より多かった。
 最近コンビニなる店が24時間開店していて便利さを売り物にしている。この場合便利というのは、何時でも必要なものが買いたいという消費者のわがままに答えたものである。お金が手元に無ければ気軽にキャッシング、これも節度を失わせがちなビジネスである。お菓子を我慢できない子供どころか、大人をたくさん作っている。自分をコントロールする事が出来ない大人たちである。これが始めに挙げた節度のない行為と少なからず結びついているであろう。
 より良い社会は節度ある人々により構成されると思うが、そのためにはこの節度を評価するシステムを社会の中に取り入れる必要があるのではなかろうか。知識重視の教育では日本は真に豊かな国になれない、便利というのはややもすると自制心を失わせる。人としてのあるべき行き方を教育していかなければ、この傾向はますます強くなるであろう。



030522

他人の空似

 初対面なのに以前会ったような気がする人がいる。おそらく以前あった人の誰かに似ている人がいるのでしょう。他人の空にといえば二度ほど驚いた人ではなくて、物がある。ひとつは電車、私鉄の電車でなかなかいいデザインだと思っていた電車があった。10年余り前のことである。そのうちその列車は鉄道愛好者か何かの団体から良いデザインの電車として表彰された。自分が良いデザインであると思うものは皆もいいと認めるのだなと内心喜んでいた。
 ところがドイツに行った折、フランクフルトの空港の駅で電車を待っていたらなんと、この電車とよく似たデザインの電車が入ってきた、色彩も同系だった。電車にも他人の空似があるのだととりあえず思う事にした。
 二度目はアメリカ、テネシー州の地方都市チャタヌーガでのこと、海外出張の疲れで車の中でうとうとしていると(運転していたのではない)、目の中に大阪の水族館「海遊館」の形にそっくりの建物が入った。縦横比は多少違うが基本的には同じ要素で構成されていた。海遊館は赤と濃い青を貴重にカラーリングされているが、こちらは金色で彩色されていた。色はまったく違うが似た形だと思った。その似た姿にびっくり意識もはっきりしてきた。後で聞くとその建物はミッシシッピー流域の淡水魚水族館という事であった。機能が同じなら似た造詣になるのだろうか。
 これらが他人の空似かどうか知る由もないが、これだけたくさんの人がいろいろなことを考えれば独創的というのは難しくなっていくのは仕方ない事か。



030510

ため口

  最近の消費者金融のテレビコマーシャルで気になるものがある。近々結婚を控えた娘が紳士服仕立屋のショーウインドウの前で、父親に礼服をさし「パパあれ買いなよ。」とのたまう。最近流行の犬が登場するアレである。妙齢の娘が父親に買いなよという時代が来たのかと思うと情けなくなる。最近の流行言葉で言えばいわゆるため口というものであろうが、なんとも悲しい。ため口の語源は諸説があるようだが、大体の意味は対等かそれ以下の者に話す言葉のようだ。父親も娘からみれば対等かそれ以下になってしまったのであろうか。
 
しかし、よく考えればアレは娘(女優)が言っているのではなくて仕掛け人がいるのである。CMであるからにはコピーライター、プロデュサー、広告代理店、スポンサーなどCMにかかわる誰かの強い意志が買いなよを選択したはずである。当然打算があっての選択である。その理由を考えると現実に父親は娘にとって自分以下だと思っているし父親もそれを認めているので抵抗はない。ため口を使った方がこの企業のイメージが上がるとこのCMの関係者は思っている。このCMのターゲットはため口を良しと思う人人であり、広告効果があると思っている。わざとぞんざいな言葉を使って視聴者を惹きつける。
 いろいろ理由はあると思うが多額のお金を懸けて流すCMであるからには、よもや逆宣伝効果があるようなことはしないだろう。買いなよは企業の業績に貢献すると少なくとも関係者は考えているに違いない。既に日本の社会はこのCMのぞんざいなレベルになってしまっているのか、はたまたこの企業は世の消費者をここまでなめていいるのか、なんともむなしいCMであり、情けない世の中になったと嘆かざるを得ない。


030422

三つの判子(印鑑)

 トヨタの生産方式として有名なのはカンバン方式、アンドン方式だが、判子三つ運動というのをご存知の方は少ないかも知れない。これは稟議書などの検印の欄を3こにすることである。ご存知のとおり日本には独特の稟議制度があり稟議書が作成される。会社勤めの方なら一度ならずもお世話になっているはずだ。かつてある国営企業の稟議書は検印20という事もあったとのこと。こんなに検印があればだれの責任か追求できない。赤信号皆で渡れば怖くないとのことだろう。当然無責任は蔓延する。自分の仕事は印鑑を押す事だと嘯いていた人もいただろう。
 かつて在籍した会社がこの運動に取り組み、私はこれを経験したことがある。当初こんな形式的なことどうでもいいではないかと内心思っていた。ところがこれがなんとも難しい、例えば自分が起案者であれば次に誰に判子を押してもらうかがまず問題になる。次にその捺印者が上位の人から見て適切な捺印者であったかが問題になる。当然最後は誰になるかも問題である。通常物を買う場合などは金額に応じて決裁者は事前に設定されていると思うが常にそれで案件の大きさが判断できるわけではない。3つの欄を誰の印で埋めるかこれは難しい。
 別の見方をすると誰の検印なしで上に上げるか判断することも本当に難しい。はっきり言うと誰を無視するかの判断を迫られる。その人から見ると自分が無視されて話が進んだことを後で知ることになる。これくらい日本古来の重層の社会を根底から崩すものはない。皆で印鑑を押し合っていた時代は幸せだった。このシステムでは検印をしたときはその責任を問われ、検印できなかったときは窓際に押しやられた気がするであろう。
 この運動は日本人に責任というものを思い出させるものであろう。会議も大人数でするから、責任回避のためにほとんどの新規の案件には反対が多数をしめる。少人数で物事を会議であれ、稟議であれ決めると一人一人の判断と責任が問われる。これはいままでの日本人には本当にきびしい。トヨタの強さはこのあたりにあるのかも知れない。フラットな会社組織とよく言われるが、これこそその核心をついたシステムであろう。



030404

イチローのスパイク

 今年も野球シーズンが幕開けした。松井の移籍でメジャーリーグの日本での人気はますます上がっている。メジャーリーグと言えば忘れられないのがイチローである。聞くところによるとイチローの活躍の陰に彼のための特注のスパイクがあるらしい。今年で3年目のイチローだがその履くスパイクは年々軽くなっているとのこと。この軽量のスパイクが彼の走塁、守備を支えている。
 スパイクといえば言わずとしれた靴の一種であるが我々ビジネスマンの靴の方はどうだろうか。靴を選ぶにはまず自分の足にあったものを選ぶ事が肝要である。以前は靴のサイズは足の長さを基準に選んでいたが、かなり前から足の幅すなわちEであらわされる基準が導入されている。
 しかし正直なところ自分の足にあったビジネスシューズになかなかめぐり合えない。靴を購入するたびに履き心地が違う。元来足の形は3次元的なものであり、靴のサイズは長さと幅だけで指標化できるものではないと思う。日本人の足は白人の足と比べて甲高な傾向にあるという。
 そういえば自分の場合も買った時にはこんなものだと選んだものの中に足の甲がやたらときつい物がある。靴のサイズの要素に足の長さ、幅だけでなく甲の高さも指標に必要ではないだろうか。土踏まずの有る、無し(扁平)の区別もあると長時間履いた時の疲れが違うであろう。このくらいの要素を取り込んで靴を開発してほしい。もしも靴の種類が多くなりすぎてコストに見合わないのなら靴の中にいれる敷き革の部分を容易に交換できるようにして、厚みや土踏まずの部分を調整して3次元的なフィットネスをはかったらどうだろうか。
 ビジネスもフットワーク。イチローのスパイクとはいかないまでも、もう少し足にあった靴で仕事に励めば日本人ももっと頑張れるかもしれない。もしも靴メーカーの方が読まれたらぜひ検討していただきたい。



030318

櫓太鼓

 大阪に本格的な春が来た。櫓太鼓の乾いた音を耳にしながら朝の寒さの中に春を感じながらの通勤だ。大阪府立体育館の前の幟は彩り鮮やかにはためいている。しかしこの本場所は気のせいかなぜか華やいだものを感じないのは私だけでしょうか。
 無論貴乃花の引退、景気の所為いろいろ原因はあると思うが、これだけではない。相撲にはほとんど知識のない私だが、相撲をテレビで見ていても余り面白くないと思うことがある。相撲の解説者がとにかく前に出る事をほめる。相手をよく見ての突進は理想的な相撲のようだ。無論引き技ばかりでは論外であるが、押し相撲ばかりでも面白くない。決まり手に寄り切りや押し出しが続くと単調に感じる。通人には理想の相撲かもしれないが、素人は豪快な大技が決まったときに、相撲の醍醐味を感じる。
 今まで相撲界は押し相撲を評価しすぎたのであるまいか、押し相撲なら大きくて体重の重い力士に分があることは明らかである。これが外国人力士や大型力士の増加をもたらした。ますます押し相撲が増えてきた。力士の大型化は力士に大きな負担を与えるようだ、体重の増加のための過食が内臓に負担を与え、自らの体重が足腰の負担からくる負傷が増えてきた。その結果休場が増加して上位陣が揃い踏みする場所はほとんどない。
 多くの観衆は上位陣の活躍を望んでいる、上位陣の休場者の多い場所が大半の観衆にとって面白いはずもない。これを防ぐには休場の制度をもう少し厳しくすべきだ。負傷や故障を防ぐ手立ては健全な肉体を作る事であり稽古であろう。簡単に休場出来ないとなれば無闇に体重を増やすわけにはいかなくなる。そうすれば体重に頼った相撲も少なくなるし、技がさえてくるし、力士の健康状態もまし、休場が少なくなり贔屓の力士が毎場所活躍し相撲ファンも満足し人気も回復する。いかがだろうか。



030305

CMの音楽

 最近リバイバルブームのためか、不景気で製作経費削減のためか、テレビのCMで昔の音楽が使われているのをよく聞く。 かつてヒットした流行歌もあれば、ポピュラーソング、クラッシクの名曲もある。 多くの場合さりげなく使われていたり、編曲されていたり、演奏形態や楽器が変えられていたりで、元の曲が何だったか気付かずにあるいは思い出せずに聞きながしていることが多い。ところが少し前から耳にのこるCMの音楽がある。チャイコフスキーの弦楽セレナードのいわゆるサビの部分をショッキングに使っているコマーシャルだ。おそらく多くの方は聞き覚えがあると思うが、「○○が××だったら・・・・」というあれである。

 クラッシクの名曲というのは人類の共有の財産で、いわば世界遺産のようなものであると思う。クラッシクの曲の多くは、例え表題がついていようと抽象的な内容を持つことが多い。裏返しに言えば例え同じ曲を聴いても人それぞれ違うイメージを持つ事になる。すなわち固い表現をすれば、それぞれのリスナーに異なる精神世界が生じている。

 しかし「○○が××だったら・・・・」はそれを許さない。おそらく今演奏会でチャイコフスキーの弦楽セレナードが演奏されたら、過半の人は「○○が××だったら・・・・」を思い出してしまうのではないだろうか。何か人の心に土足で入り込まれた感じがする。いわば世界遺産のど真ん中に大きな派手な看板を建てられたようなものである。それが法律に違反していようといまいと、ある種の暴力ではなかろうか。 たとえ宣伝効果は抜群であったにしても、世界遺産の真ん中に派手な看板を建てるようなことをすれば、長い目でみれば人々の共感が続くとは思わない。



030218

バリアフリー

 歩道と車道の間には20cmくらいの段差がある。そのため車椅子の通行に大きな障害(バリア)となっている。この障害を少なくするためこの段差にスロープが作られている。障害者への配慮から盲人用の丸い突起のついた誘導版の敷設などと共にバリアフリーの施策により普及が推進されてきた。街のいたるところ歩道と車道の段差はなくなり、以前に比べれば障害者の方々に使いやすい道路になってきていると思う。
 ところがおそらくこのバリアフリーの恩恵をもっとも受けているのは自転車だろう。車道と歩道の段差がなくなったため自転車は車道、歩道を問わずスイスイ走っている。もともと自転車は車道を走るべきものだと思うが、自動車対自転車の交通事故が増えてきたために自転車が通行可能な歩道が出来たと記憶する。従って自転車が走れる歩道は自転車通行可なのであって間違っても自転車専用道路ではない。あくまでも歩行者の方に優先権があると思うが現実にはそうではない場合が多い。
 通勤駅の周囲の道路はよく整備されたところを除いて、自転車の群れで覆われている。いわゆる放置自転車で歩道は占拠されている。歩行者は暴走する鉄のパイプで出来た自転車に、生身の体をさらし怯えながら歩いていかざるを得ない。パイプをもって集まると凶器準備集合罪で罪になった時代もあるが、考えようによればこれらの歩道を暴走し、歩道に集合し放置される鉄パイプ製の自転車は凶器準備集合罪に問われてもおかしくない。もちろんこれらの自転車は車椅子の行く手を阻み、誘導版を覆い尽くしている。
 いまや車椅子、盲人いや歩行者にとって最大のバリアは自転車ではあるまいか。バリアフリーを推進された方はどのように考えられているのであろうか。段差を解消する事によってバリアが新たに生じた事は想定外のことであっただろうか。そろそろ対策を打つべき時が来ていると思う。



030208 長寿保険

 元来生命保険は死亡や傷害などに対して保障するものとして発展してきた。ところがここまで平均寿命が延びてしまうと、高齢者は長生きしすぎる心配を抱いているのではなかろうか。蓄えで賄える以上の長生きをすると、貯金が底を着くからである。いわば高齢者による老後の後の心配である。
 日本の個人貯蓄の過半は高齢者が持っているといわれるが、これでは市中にお金が回らないのはあたりまえである。そこで提案だがある年齢までは従来の保険で、しばらく無保険期間を置いて、ある年齢からは、例えば平均寿命プラス数年以上は、長生き(長寿)保険にしたらどうだろう。 そうすれば思い切って高齢者が自らのために、元気な間にお金が使えるのではなかろうか。 健康保険や社会保険の行く末が心配されている中で、高齢者は死の恐れとともに、長生きの心配もある。
 市中にお金が回らないからデフレになるのであって、お金持ちの高齢者から予想以上に長生きしてお金のなくなる恐れを取り除いてあげれば、心残りなくお金が使えるのではなかろうか。自らの蓄えを自ら心置きなく使えるし、その結果消費が増える。その上保険料も市中に出回る。日本経済の回復の起爆剤になるかもしれない、どなたか保険の専門家のかた考えられたらいかがであろうか。


030201 長岡京

 先日のローカルニュースで長岡京の跡地で条理(道路)の発掘をしていたら道路に面して何も立った痕跡のない道路の遺跡が見つかったという報道があった。長岡京は平城京(奈良)から平安京(京都)に遷都する僅かな間都が置かれたところである。 都が置かれた期間が短かったので都としての建物、機能が充実する前に都が移ってしまったという事であろう。 たまたま拙宅が平城京の三条通りの遺構上に立っていることが近所の道路工事の遺跡調査でわかった。その時専門家の話を聞く機会があった、その専門家の言われるには三条通りに沿って家が建っていたかどうかが興味の中心だということであった。我々素人のイメージから言うと当時の平城京は整った条理に整然と家々が並んだ大都会である。結果的には道路の両側に家の柱の後や側溝などが確認され町並みを形成していた事が判明した。 三条通りといえば二条通りに続くメインストリートの一つであり、我が家は都の南北の中心朱雀通りからわずか約3キロしか離れていないところにあるにも係わらず家があったかどうか確認されていないとは驚いたものである。
 今日本中に埋め立てられ、造成された工業用地が更地のままで放置されている。その面積たるやおそらく素人には想像のつかない広さであろう。後世の人はこの土地(既に遺跡になっている)を我々が何のために造ったか理解できないであろう。この土地はバブルの崩壊のため造成されたが使用さえないまま放置されたとでも注釈の記念石でも残して置くべきだろうか。
 いずれにしても使用の確信のない土地を作り、あるいは造成したまま放置するという習いは1400年以上も前から日本人にはあるということだろうか。土建国家日本の歴史は1400年以上の実績をもっている。なかなか日本人は変われないのだろうか。公費をつぎ込んで造成した雑草の荒地にはせめて作った人の名前くらいは石碑にして埋めておいてもらわなければ20世紀の日本人が皆無責任だったように後世の人に思われてしまう。


030118 自業自得

新しい年を迎えました、経済状況は特に好転したとは思えませんが、人々の意識は間違いなく変化しているようです。 今年最初のコラム「スレートの欠片」にいくつかのメールをいただきました。 その中に大阪の企業について述べたものがありました。
 要約すると 「江戸時代の大坂は幕府の天領で、藩間の商取引が唯一許された地域でした。 幕府の手厚い保護の下で大坂の商人は潤いましたが。 それが明治維新で藩(都道府県)間の取引はどこでも自由にやれるようになり、大坂は未曾有の不況に襲われました。 大坂は大阪に名称を変え、心機一転自力更生し、厳しい選別の試練を潜り抜けた企業は後の大財閥に成長しました。 しかしこれらの企業群もいつのまにか政府を頼りとするようになりました。  自業自得が歴史の試練に晒されているのは穿ったみかたでしようか。」 と結ばれています。
 いずれの不況においても、政府の保護に甘え、環境の変化に沿った対応の出来ない企業に明日はないという事でしょうか。 自業自得、確かに厳しい言葉ですが、環境の変化に対応しないで、じっとしていても何も解決しないばかりか、企業生命さえ危うくなるということでしょう。 厳しい北風に向かって日本海の水仙は美しい花を咲かせます。 レッツ チャレンジ。


030106 スレートの欠片

故郷で正月を過ごした。 泥沼の不況と正月、ふと子供の頃を思い出した。 従兄弟たちと工場造成用の埋立地で凧揚げをしていたとこのことだ。 遠浅の海底の泥を浚渫して埋め立てた広大な土地の上を思い切り凧を引っ張って走っていたところ。 突然すっぽりと膝まで足がはまってしまった。 海の泥で埋めた土地の表面は乾いていても埋立地の中央部の下は粘土質の泥のままだったのだ。 例えてみれば乾いた土を氷に見立てれば氷の上を走り回っていたところ中央部の薄い氷が突然われて沼地に落ちたような状態である。
もがけばもがくほどずぶずぶと沈んでしまう、ほとんど身動きが出来なくなってきた。 何しろ広大な埋立地のこと一緒に来た従兄弟は芥子粒ほどにしか見えず大声を出しても聞こえるはずもない。 じっとしていても沈むが、動こうとすればするほど沈むのが早まるのが感じられた、このまま底なし沼に沈んでしまうのだろうかと悲嘆にくれた。 どれほどの時間がたったのだろうか、ふと1メートルほど先のスレートの欠片が目に入った。 少しづつ沈む自分に周囲の物が目に入らなかったのだ、やっとの思いでそのスレートを引き寄せて手に体重を乗せて足を引き抜いた。 それからはそのスレートの欠片を足がかりに底なし沼から脱出した。 おそらく服は泥だらけになっていただろうし、正月用の服を汚して叱られたと思うが覚えていない。 何しろ底なし沼から生還できたのだから。
今デフレ経済不況の真っ只中である、皆沈まないようにじっとしている。 じっとしていてもいずれは沈んでしまう。 不良債権とか、土地バブルの崩壊、IT不況とかいろいろ言われているが、結局は日本産業の国際競争力が相対的に低下した事が最大の原因であろう。 じっとしていてもただ沈むだけだ。 足がかりは必ずある、勇気をだしてスレートの欠片を引き寄せよう。 多くの人がそう思えば日本は泥沼から脱出できる。 今年こそ元気な日本を取り戻そう。


021223 都市と人口

 見知らぬ町に行ったときに、その町の人口を聞く事が多い。相手はタクシーの運転手やホテルマンなどになるのだが、日本ではそこそこの答えが返ってくるが、アメリカでは極端に大きな数が帰ってくることが多い。そこでそんなに多くはないでしょうとこちらが言うと、それよりずーと小さい数が帰ったりする。 そして重ねて質問をするとたいてい良くわからないといってその話題は終わってしまう。 アメリカ人は自分のすんでいる町の人口も知らないのかとずーと思っていた。
 ところが最近ニューヨークタイムズのアルマナック(データー年鑑)を捲っていてわかったことがある、都市の人口が日本のように行政のエリアだけで書かれていないのだ。 例えばニューヨークの場合、New York, New York (ニューヨーク州、ニューヨーク市)とその隣接の衛星都市、ハドソン川をはさんだニュージャージー州のハドソン川に面した諸都市を含むやコネチカット州のニューヨーク隣接地域などを含むメトロポリタンニューヨーク(1800万人)の人口の概念があるようだ。多くの場合他の都市でもメトロポリタン人口を答えられる場合が多いことがわかってきた。
 そこで我が大阪は統計によると大阪市260万人、大阪府は880万人、ところが例のアルマナックによるとUrban Osaka(大阪の郊外を含むエリア)は1060万人で世界19位と書かれている。 このアーバン(メトロポリタン)人口はかのパリ、ロンドンのそれより大阪が大きい都市であることを示している。 そうゆう認識が我々には欠如しているのではないか、ちなみに東京は2790万人でダントツの世界一の都市、しかし横浜はこのリストには入ってこない横浜は東京に飲み込まれている事になる。このような統計は日本にあるのだろうか、私は見た事がない。
 都市を語るとき行政区による枠組みで考える事には無理がある。都市の規模はその経済的、文化的影響力で考えるべきであって、行政区による人口で考えるべきではない。大都市はその自らの影響力を与えるエリアを含めて、発展を考えるべきではなかろうか。道州制など将来の区分が提案されているが、その場合昔の藩幕体制を基にしたものではなく、都市の影響力の及ぶ範囲を基にして線引きした方が経済的にも、文化的にも、環境管理の上でも良いのではなかろうか。大阪の人口は260万人と考えるより、大阪圏の人口は1060万人と考える方がその上に元気がでる。萎縮している日本にとって思考の構造改革が必要である。


021209 絵画と光

 先日レンブラント展を見に行った、さすがに光の芸術家レンブラント、その重厚な描写に改めて感動した。 特に近づいて見た時のタッチは驚嘆に値する。 晩年の絵は彼の厳しい生活を物語るように、緊迫感を感じた。 大家の作品展であり、代表作も展示されていたので大混雑を覚悟していたが、それほどの人出ではなくゆったりとはいかなかったが、心行くまで楽しむ事ができた。
 展覧会に行くと感ずることがある。 光である。 我々は照明を介して絵画を鑑賞するのであるが、展覧会の光は適切なのだろうか。 今回もかなり薄暗い照明であったが、彼の画風にマッチしていた。 絵画は光によって劣化するので、強い光は当てられないのは良くわかるが、ひどいときは本当に暗いときがある。 おまけに初期の油彩は厚い重合植物油やバルサムによって被覆されていわばガラスのような光沢を持っているので、点光源を直接当てられると、絵を見にいたのか電球の反射を見に行ったのか、解らないような美術展もある。 物の色は光(色温度)によって変わるので、画家の描いた本当の色を感じることが出来るか疑問に感じる。 無論長い時間を経ると絵の具は変色し、ニスは渇変するので、目の前にある絵は画家が描いたときとは少なからず変化しているのであろう。 その上画家が想定したと相当異なる鑑賞空間で我々は鑑賞しているので、作者の創作的意図にどれだけ迫られているかいささか自信がない。
 出来れば柔らかい自然光の中でゆっくりと絵画を鑑賞したいが、商業的な美術展ではかなわぬ希望であろう。 しかしせめて美術展の主催者もしくは学芸員にお願いしたいが、移動展であろうとも常設展に近い環境で絵画を見せていただきたい。 これは主催者側の最低のモラルではなかろうか、残響のない会場での音楽と同様光に無頓着な美術展は情けない。


021128 カレーの味

 カレーを食べると思い出すことがある。 私が小学生のころ、母の年の離れた妹が結婚した、新婚夫婦は私を可愛がってくれて、時々家に連れて帰ってくれた。 叔母は子供の好きなものと思ったのだろうカレーを作ってくれた。 今まで子供を育てたことのない叔母は普通のカレーを作った、ところがこれが子供の私には口から火が出るほど辛かった。
 その数年後叔母夫婦のうちでカレーを食べる機会があった、この時幼稚園か小学校の低学年くらいの子供(いとこ)が二人いた。 私はおそらく中学生位にはなっていたと思うが、このときのカレーの味が砂糖のように甘く感じられた。
カレーの味は家庭の世代のサイクルによって大きく変わることに気づいた。 母は子供の成長に合わせてカレーの味を変えていただろうし、もちろん叔母も、そして私の妻も変えてきたはずだ。 最近結婚しない人や、望んで子供を作らない夫婦が増えてきているが、こんな小さなことだが人生のサイクルを感じることもなく人生を過ごす人が増えてきたと言えるのではなかろうか。
 無論あまりにもこのサイクルにはまると、他人からみれば親ばかだったり、教育ママになったりする。 しかし夫婦、あるいは一人だけの変化の少ない生活を続けると気付かないことがたくさんあることには間違いがなかろう。 例えば商品開発は他人のニーズや嗜好を捕らえることが極めて大切だと思うが、カレーの味の変化はその典型ではなかろうか、この経験を持たない人が生活商品の開発をするのは難しいと思う。 家庭はニーズを生み出し、ニーズを発見する場所でもある。


021119 コールガール

 かって、おそらく2,30年前、欧米では人前で化粧をするのはコールガールである(真偽のほどは知らないが)といったことを本で読んだことがある。 社会人になってたびたび海外出張の機会があった時、そんな記憶があって無意識に見ていたはずだが、今思い出してもそんな(女性が人前で化粧をする)場面に遭遇したことは思い出せない。 日本ではレストランなどで食事のあと口紅などを修正するのはごく普通の風景だし、まして電車の中でマスカラをつけている若い女性は珍しくない。 豪傑になると渋滞した車の中で化粧し、勤め先につくころには仕上がっているという女性もいる、渋滞した道路で2車線以上であれば、隣の車から素顔から化粧美人になる過程を見たくなくとも拝見することになる。
 欧米人は日本でこんな光景をみるとコールガールの多さに驚くのであろうか。 まさかそんなこともないと思うが、あまり行儀の良い作法には映らないだろう。 化粧は宗教的意味を別にすれば、自分を他人に良く見せるための手段だと思うが、結果がいかにあろうと途中の行為を見せることで人を不愉快にすれば、所期の目的を達成することにならないのではなかろうか。
 最近タバコのCMで喫煙のマナーを訴えるものを良く見るが、化粧品メーカーもあれだけ携帯に便利な化粧品を売り出すのであれば、通勤中電車などの中で化粧をするのはやめましょう、くらいのアドバイスはして欲しいものだ。 マナーがあってこそ美しい人だと思うが、いかがであろうか。 


021102
ゲーム脳
 
  最近の研究でわかったことに、額の裏側にある、感情や行動の統制、思考や創造性など、人間らしさを保つことに大切な働きをしている、脳の前頭前野が機能しなくなっている人が増えているとの事である。 このような状態をゲーム脳と名づけている。 だいたい週4日以上2〜3時間、10年以上のゲーム付け生活を送った人たちである。 切れやすい、物忘れが激しいなどの自覚症状があるとのことだ。 テレビゲームでは目からの刺激に対し、考えるプロセスを経ないで手を動かすので、前頭前野が働かないために機能低下に陥ってしまうのである。
 前頭前野の働きを示すβ(ベータ)波のα(アルファ)波に対する割合がノーマル脳ではテレビゲームを始めてもほとんど低下しないが、ビジュアル脳と呼ばれる初期段階ではゲームを始めると平常時から明らかに低下し、ゲーム脳と呼ばれる状況までなると、平常時まで低下したままになりβ波が出ない状態になる。 調査ではゲーム脳が20%いた。
 最近頻発する青少年の尊属殺人や行きずりの人に対する動機なき犯罪、あたり構わず座り込んだりするなどの、文明人とも思え無いような行動もゲーム脳とまんざら関係ないとも言い切れない。 レポートの中では携帯電話のメールへののめり込みにおいても同様な症状が出るらしい。 無気力な若者が増えたと言われるが、長年のゲーム依存の生活が生み出したのかも知れない。 個人個人があるいは家庭生活において気をつけるとともに社会的にも対策を打たなければならないのではなかろうか。 人間らしさを失った社会が復興再生するとは考えられない。

021021 人の目

 日本人は元来、人(他人)の目を気にする(し過ぎる)性格の人が多かったと思う。 ここで過去形で書いたのはどうも最近そうではなくなった気がするからである。 あたり構わずしゃがみ込んだり、電車の中で平気で化粧をする若者が増えてきた。 反面仲間(人)からどう見られているかは極めて大きな関心を持っていると感じる。 これはおそらく携帯電話の普及に大いに影響を与えているのではないだろうか。 ここで人の定義が問題になる、最近の日本人にとって人(他人)とは自分が知っている人、あるいはなんらかの関係ある人になっているのではないかと思う。 かつては袖触れ合うも多少の縁とかいったが、一部の人にとってすれ違うだけの人は他人どころではなく、すでに人(人間)ではないのだろうか。 目の前の人に対して人間としての尊敬があれば、満員電車で床に座り込んだり、人の前で化粧をしたりなど出来ないはずである。
 かつてLOOK EASTというスローガンを上げて日本を目指した国の首相が、すでに日本はお手本ではないと講演しているのを最近テレビで見た。 現在お手本としているのは韓国と台湾と話していた。 茶髪などの若者の風俗を例に挙げ日本はかつてあったあるべき何かを失ったと言っていた。 他人(目の前の人)から自分をどのように見られているのか気にならなくなった日本人が、遠くで見ることのできない外国の人の目にどのように映るかを考えることは論外のことであろう。目の前の人が石ころに見える日本人に、海外の人々からどんな風に見られているか思いをはせることはできないであろう。 こんなところにも日本の沈下が見えてくる。 


021014 茹でガエル

 一頃茹でガエルという言葉が流行ったことがある。 (念のために書いておくと水の入った鍋にカエルを泳がせておいて、ゆっくりゆっくり水の温度を上げていくとカエルは水温の変化に気づかず最後には茹で上がってしまう。(本当は知らないが) ぬるま湯体質ということで、環境の変化に鈍い(先送り体質の)日本人を比喩したものであったと思う。) しかし最近めっきり茹でガエルの話は聞かれなくなった。 多くの茹でガエルの話は会社の上司や先輩が君たちは変わらなければいけないという内容で話されたと思うが、変わらなければならなかった人は聞いた人々ではなくて、話した人であったことに、現実が気付かなければならない状況に追い込んだからではないか。
 アメリカ経済の状況に一喜一憂しながら頼りにして景気は好転しているとか何とか言って、抜本的な対応をしてこなかった社会のリーダーたちがぬるま湯体質そのものだったのであろう。 経済は抜き差しならないところまで来てしまった。 後は茹で上がるか、最後の力を振り絞って飛び出るかであろう。 ただ飛び出せば火の中に落ちるかも知れない、闇雲に飛び出るのではなく、着地点(具体策)を見定めて慎重に出なければならないだろう。
 この10年間我々は勇気を失ってきたのではないだろうか。 人に飛び出せという前に自分が出なければならない、これからの時代は昨日と同じ事をしていることは衰退につながる。 自分や自分の周囲から変わっていくことこそ日本再生の一歩であろう。 同質を求める日本人であるが、一人一人が自立すること現状突破の最大の方法であろう。 定年をカウントしている人には社会(会社)は変えられない。


020926 若者に仕事を

 最近の報道によると来年高校卒業者の就職希望者の約半分が就職できないそうである。 就職がないから大学や専門学校に取り合えず進学するモラトリアム的進学者まで合わせると実質的に働き口のない若者の数はゆうに過半数を超えるであろう。 これら進学者も2年もしくは4年後には就職希望者として就職戦線に再参入してくるはずである。 現在の日本は過っての経済的繁栄による親達の蓄えで、未就業者の若者たちを支えているが、そのうちこれにも限界が来る。 本人達の就業意欲の問題もあるが、社会にフレッシュマン、ウーマンとして出る瞬間から出鼻をくじかれた、あるいはくじかれるであろうと思っている若者の多くは夢の持ちようもないであろう。 
 日本人の高齢化と福祉医療、少子化の問題はマスコミでもよく取り上げられるが、若者に仕事が無いことには余り触れられていないように思う。 現在の若者は折り合いがよく特に社会にその怒りを爆発させることは少ないが、全共闘世代が今若者だったら連日職よこせデモをしているのではないだろうか。 若者に仕事を与えることを真剣に考えなければならないと思う。 その一方で研修の名目で海外から短期の就労者が日本に入っているらしい。 別に外国人を排斥しろというような考えを持っているわけではないが、例えばバブル期に嵩上げされた労働条件、最低賃金報なども見直してでも若者の就業については真剣に考えるべきだろう。
 最近大学の技術移転について着目されているが、現実には成功例はまだまだ少ないのではないだろうか。 かって国公立大学の先生方は定年とともに私立大学の教員として再就職される方が多かったが、少子化の影響で私立大学の将来も厳しいので再就職も厳しいと聞く。 いっそのこと日本の科学をリードしてきたこれらの退官教員に一肌脱いでいただくというのも一つの方法では無いだろうか。 長い間研究されてきたこれらの先生方は多くの方が何らかの商品化のシーズをお持ちであろう。 これらの方にベンチャー企業を起こしていただき過っての教え子たちの就職先を確保するのである。 そのためには政府や自治体は研究施設の一定期間の低額貸与などの助成は積極的に行ってほしい。 学生の就職の無いことに一番気を病んでいた人に活躍してもらう事が一つの解決の方法でもあると思う。 若者が希望の持てる日本にしなければならない。


020918
広告

 最近特に駅や鉄道沿線の看板の広告が減ったように見える、下地の地肌のものや、準備中のデザインのものもある。 ずっと以前から下地のままで経過したものや最近広告がなくなったものもある。 看板の林立はあまりきれいなものではないが、最近のように骨組みだけの広告塔や、下地の看板もうら悲しい。 販売量が減れば広告をして販売促進をしなければならないが、購買意欲を失った消費者に広告は効果がないのだろうか。それともゆとりがあった時は気休めで広告をしていたのだろうか、広告主だけでなくこの方面のビジネスも大変だと推察される。
 10年余りほど前、不況の又真っ只中のニューヨークの地下鉄は本当に薄暗かった、人影が認識できるくらいで顔はよく見えない程度の明るさだったように記憶する。 ニューヨークの駅も日本の駅のように電照看板を取り付ければ明るくなるのにと当時思ったが、どんどん看板が減っていく今の日本を見れば、なんと認識力のない自分が恥ずかしくなる。 このまま行けば日本の駅も暗くなるのであろうか。 その後ニューヨークの地下鉄はきれいになった。
 広告と反比例してグラフティ(壁面の落書き)がいたるところへ増殖している。 あのころのニューヨークを思い出す。 書いている本人は芸術のつもりかもしれないがあまりきれいなものではない。 経済が停滞すると人の心が荒廃する。 自己顕示欲の愉快犯であろうが、夜陰に乗じて描いている姿を想像するとこれもやはり惨めだ、なんとかはつらつとしてこぎれいな日本を取り戻したい。


020906 先送りの継承

電車などで若者たちが別れ際に、「あとでメールをするから」といった声を交わしているのが聞こえることがある。 無論どんな内容かは知るすべもないが、今まであって話していたのに何の連絡があるのだろう。 身近にいる若者達もひとときも携帯電話を離さない。 いつ飛び込むかわからないメールにスタンバイしているようである。 
 顔を合わせているときに物事を決めないで、別れた後にメールで一方的に情報を送りあっているのではないかと感じるときがある。 携帯のメールのおかげで確かに便利になったが、複数で顔を見合わせて決めるべきことを先送りしているのではないだろうか。 先送りの日本人の特性を若者も立派に?継承し、先送りのツールとして携帯電話が使われているのであろう。 携帯電話の普及にメールが大きく貢献していると思う、無論電話の通話代よりもはるかに安いことが大きな理由だろうが、相手の反応を感じることなく、今すぐ結論を出さずとも切羽詰った時に一方的にしかも複数に連絡ができることが携帯電話普及の理由のひとつであろう。 
 もしそうだとしたら、日本人の対話交渉能力はますます低下するであろうし、どんな小さなことでも事柄(問題)をそのつど対処することを避ける習慣を身に着けていったら、問題の先送りは日本人の体質として固定してしまう恐れがある。 そのうえ4文字の短縮文章で連絡しあっていたら、情緒もなにもあったものではない。 日本人の情緒はすでに霧散しているのだろうか。 携帯電話は便利であるが、このような点からも携帯電話の功罪を考えることが必要かもしれない。 日本人の問題先送りの体質は言われてすでに久しい。


020829 セルラーホリック

 最近電車の中で驚いたことがあった。 電車はそれほど込んでなくシートに座って何気なく前に目をやると視野の中に10人ほどの人々が眼に入った。 ふと気づくと全員が携帯電話を操作していた。 幸い大声で電話をしている人はいなかったが、眼前の全員が携帯を触っているのは不気味なものである。 この時なぜかあのアルコール中毒(アルコホリック)の映画「酒とバラの日々」を思い出した。 ひょっとすると日本人の何割かが携帯電話中毒(セルラーホリック)になっているのではないだろうか。 確かに携帯電話は便利なものであるが、これだけの人が皆電話を一度にしなければならないほど忙しくはないだろう。 メールを打っている人も、読んでいる人も、大きなファイルを取り入れている人もいるだろうが、気がついてみたら携帯を触っていたという人もおそらく何人かはいたであろう。 携帯電話を取り上げられたら禁断症状が出る人もいるかもしれない。
 携帯電話の出会い系サイトで命を落とす若者特に女性が1年に何人か犠牲になっているし、有料サイトで莫大な電話代を支払っている人もいるようである。 プリペード式の携帯が犯罪につかわれることもしばしばである。  特に若者の中には1日のうちかなりの時間を携帯電話に浪費している人もたくさんいるであろう。 携帯電話の功罪について考えてみなければならない。確かに携帯電話は便利であるが日本人の時間や金や命を奪い取っている。 節度ある使用が必要であろう。


020803

常識と非常識

大抵の人が君は常識がないとか非常識だと言われればいい気持ちはしないだろう、反面例えば芸術に対しては常識的な作品だと言われれば誉め言葉ではない。プレゼンテーションにたいしてこんな常識的なアイデアではだめだともいわれる。人には常識が求められるし、常識の中に留まっていてはだめだとも言われる。常識とは「健全な社会人なら持っているはずの、ごく普通の知識・判断力とのこと」であるが、この常識の基準は難しい。ここに来て、例えば日本人の髪は黒いとか、日本人は勤勉だとか、日本は安全とかといった、嘗ての日本の常識は謦咳化しつつある。

常識の概念は段段に、というよりは急速に大きく変化しているのではなかろうか。世代間の常識の基準はかなり異なってきたように感じる。また常識は権威や権力によって作り出されてきた側面もある、経済が衰退する中でいろいろな権威が萎縮してきて常識も変わってきているのではないだろうか。コマーシャルイズムによっても常識は変えられてきている、消費者金融がモノを持っていないことが恥ずかしいようなCMをながしているが、たとえば10年,20年前なら日本人社会でこのようなCMは容認されなかっただろう。常識自体が激変している現代の日本で、常識がありかつ常識にとらわれない生活は本当に難しいと思う。日本人のモラルと独創性が衰退していると感ずる昨今である。



020719

大恐慌とIT(情報技術)

最近2週間ほどインターネットメールの不調に悩まされた、原因は加入しているプロバイダーのメールサーバーが断続的にダウンしたことによる。 このことで、本で読んだ1929年の大恐慌を思い出した。 この年の1024日暗黒の木曜日、株が激落し始めた。当然当時の通信の花形「ラジオ」はこれを放送し,電話で売りの注文が殺到した。これに対して政府は直ちに対策を行い一時市場は沈静化したかのように見えた、ところが既に電話回線はパンクし情報の伝達はタイムリーに行えなくなっていた。 市場は沈静化する可能性はあったにもかかわらず、電話は不通になり、ラジオは情報の先入れ先出しをしたために、民衆は株が暴落しつづけていると思い売りが売りを呼んだ。

現代においてはインターネットの社会的影響は極めて大きい、例えば株の売買をインターネットで行っている人もたくさんいるであろう。最近大阪市内で電話の不調があったがこれはすぐにニュースとなって明らかになったが、インターネットの不調はほとんどニュースとして公開されていない。 経済的なパニックとインターネットの不調が重なれば1929年と同じことが起こらないとも限らない。 

インターネットの普及というとすぐに魅力あるコンテンツの話になるが、本当の問題はその扱いづらさや不安定さではなかろうか、多くの人は問題が起きた時はお手上げになる。IT技術者を抱える会社ですら、サーバーのダウンは頻繁に起きている。 今後のインターネットの普及はもちろん、社会に大きな混乱を起こさないためにもインターネットという巨大システムの安定化は至上の問題であろう。



020713

プロメテウスの孫

前回科学的事象の判断の難しさについて述べたところだが、新聞によるとどうやらプロメテウス(人間を作ったとされるギリシャ神話の神)の創造物たる人間が生命を作り出したらしい。米ニューヨーク州立大学などが解析済みのゲノム(全遺伝情報)をもとに、化合物(ヌクレオチド)を並べてゲノムの大きさが7500個のポリオウイルス(かつて小児麻痺として恐れられた急性灰白髄炎を引き起こす)を作ったのとのことである。

小なりとは言え、無生物化合物(ヌクレオチド)から生物であるウイルスを作ったこのの科学的意義は大きい、プロメテウスの孫が生まれたのである。 今後このウイルスは細菌、原生動物、高等生物につながるものであろう。 今までクローン技術、遺伝子操作などが問題になっているが、これはあくまでスタートが生命体であり、今回の事柄とは違う次元のものである。 いままで命を作れるものは神(自然)のみと信じられてきた。

今後の発展により功罪両側面が予測され、当然のごとく倫理観が求められている。プロメテウスが人間に与えた知恵が、人間にとって幸福をもたらすものか、悲劇を生み出すものかこれからの人間の判断一つであろう。力を持てば持つほど判断力と謙虚さが必要になる。



真実の判断

30年ほど前、Gという超能力者が話題になりテレビでスプーン曲げを実況中継してみせた。当時理系の学生であった我々の間でも議論伯仲した。大方はどのようなトリックでスプーンを曲げるのだろうという論点であったと思うが,1人の友人が「自分が信じられないものは受け入れられないというのでは科学者ではない、あり得るかもしれないという見方が何故出来ないのか」と皆を諭した。その後我々の議論がどのように進んだか記憶の闇に沈んでしまった。

確かに、実際に目で見える、太陽や月の動きで天は地球を中心としてまわり、宗教的教義により、ガリレオの地動説は葬り去られ「それでも地球は回っている」と呟いて獄中の人となった。しかし現在天動説を信じるものは誰もいない。

かれこれ一昔になろうとするが、ある宗教団体の教祖が修行により解脱をすれば空中浮遊をすると、その可能性を信じる若者を中心に信者を増やし、最終的にはテロリスト集団とかし、多くの命を奪い去った。このときその殺人手段を提供した者の多くは理系の学生や大学を卒業したばかりのものであった。

新しい事象や概念,あるいは古くてもいままで取り入れられなかった概念を認識し、判断をくだすことの難しさを改めて考えさせられる昨今である、遺伝子操作など今まで考えられなかったようなことが次々に研究開発されている。これらに対応していく判断力はどのようにして身に付ければいいのであろう。遺伝子の中には過去のデータ-しか刷り込まれていない生物は元来保守的で永遠の課題なのかも知れない。



青信号皆で渡るもまだ怖い

 中国の交通事情をもう一つ、中国の交通ルールは車優先が基本である。したがって歩行者は車の走行を邪魔しないように歩かねばならない。これがなんとも怖い、日本は人優先の交通ルールであるから、多くの歩行者が横着になっている。人がいれば車は止まってくれるのである。

 ところが中国ではそうはいかない、人が居ようが居まいが車は突っ込んでくる、それで事故になれば歩行者が悪い。踏み切りで列車に突っ込んだ車と同じで一方的に人が悪い。横断歩道の上でもこの状況はいっしょである。しかも大通りでも横断歩道は少なく、まして信号付きの横断歩道となると大都市の中心部を除いて極めて少ない。その上信号のない交差点では車同士がクラクションを鳴らしあって優先権の宣言をし合っている。車右側通行の中国では交差点では車は常時右折可であるすなわち赤信号でも車は右折できる。カルフォルニアでも同じであるが、米国では歩行者が居れば少なくても徐行はしてくれる。中国ではそこのけ、そこのけ車が通るである。ましてこちらは右見て左見てが染み付いているので、車の確認のタイミングが悪いから、道路の横断は何しろ怖い。中国人にくっ付いていかなければ交通量の多い道路の横断は不可能に近い。

 おそらく二,三十年前は自動車の数が少なく、しかもほとんどが政府や軍隊の持ち物だったであろうから、お上優先の交通法規ができて、こんな風になったのであろう。命より車の方が大事だったのだろうか。このような国と人権について話し合うのはさぞや難しいであろう。日本人は法によって守られていることを実感した。



020618

マナーとバイタリティ

  この度の中国視察で上海の地下鉄に数人で乗る機会があった。なにぶん上海は人口1600万人の大都会で、通常でもいたるところで自動車事故が発生している。ましてや通勤時間帯のラッシュは相当なもので、急ぎの用があったので大渋滞を避けるために地下鉄に乗った。幸い近くに駅もあり、地下駅の構内に下りていった。切符の自動販売機は停止していて、ひとつの出札口が黒山の人だかりだった。それでも出札口には程なくついたが、窓口を目前にしているのに、なかなか切符が買えなかった。何本もの手が横や後から伸びてきて出札口が目の前にあるにも関わらず次々と先を越されてひどく手間取った。

やっとの思いで切符を入手してホームに下りていった、乗車位置がホームに描かれていたので一行で並んで電車を待った。現地の人はそこらここらに思い思いに立っていた。そのうちホームは鈴なりの人出埋まってきた。そこに電車が来たが、人々はあっという間に電車の入り口に集まってすごい勢いて乗り始めた。下りる人を待つ習慣はないらしく、降車する人と乗車する人が渦潮のようにぶつかりあっている。列の先頭にいたはずだが、実は列そのものはもともと存在しなくて乗車したのは結局最後になった。

日本人が国際的に、マナーが良い方ではないと思うが、日本のマナーを守って中国で生活したら大変なことになる。これからはマナーとバイタリティを身に付けなければ日本人は国際社会でやっていけないのかも知れない。



020608

中国認識

最近中国の青島、上海、珠江デルタと一週間かけて視察した。5,6年ぶりの中国であったがその変化の大きさに改めて驚いた。かつてあらゆるところが工事中だった深せん、東莞の産業エリアはすっかり整備されて、それぞれ近代的な大都会に変わっていた。青島郊外の産業地域が以前の珠江デルタの有様で、あちらこちら道路工事が行われていた。北部沿岸部も南部の沿岸部に5,6年遅れで追いかけてきている。

中国には貧富の格差、年金の問題、通貨の問題など大きな課題があり、今後の発展が疑問視する意見もあるが、今回の沿岸部を回ってみた限りでは、大きな変貌をとげており経済は表面的には拡大していると感じられ好景気の様子であった。特に上海は近代的な大都会になっており、繁華街にはブランドショップが店を並べるなど日本の大都会と比べても遜色はない。立ち並ぶビル群は東京を含めて日本の都市の比ではない。町行く人々にも活気があり、職場はどこも活き活きした若者であふれている。

我々は中国の様子をテレビや新聞で見ているが、今回改めて感じたことは、我々平均的な日本人が抱いている中国のイメージより、現実の中国は遥かに変化している。多くの日本人の中国に対する認識は、数年前の中国かもしれない。現実の中国を見れば日本人の誤った優越感は霧散するであろう。安い労働力の供給源といった見方で中国を認識していると日本の産業は大打撃を受けるであろう。



020601

子供の高齢化

昨今の日本では人口の高齢化と少子化が大きな問題である。これと共に現在余り表面だって問題になっていないが、もうひとつ子供の高齢化の問題がある。子供も中学生になると公共料金が大人と同額になり、このあたりが大人の入り口であり、遅くとも20歳では完全に大人のはずである。しかしながら生物年齢的には完全に成人になっているはずの年齢者の行動様式が子供のままの者を多く認める。これらが少数であれば、これも個性で片付けられるが、相当数いるとなると社会的に大きな問題である。

たとえばカバンいっぱいに漫画本を入れて持ち歩き、人前で何の臆面もなく読んでいる。キッズファッションの大人サイズ服装のままどこへでも行ける。縫いぐるみをいっぱい並べてまるで子供部屋のように飾り立てた自動車を運転している。道路であろうと階段であろうとどこにでも地面に直接座っている。携帯電話になにやら沢山貼り付け、ぶら下げている、これでは携帯電話は道具ではなく明らかにおもちゃ。定職に付く気も無く、それを特に問題にしていない。理由の中に好きな仕事が見つかっていないので、見つかるまでフリーターでいく。まるで好きなクラブが無いのでクラブ活動に参加しないのと同じような理由で仕事をしない。学校に行くのにまるでその化粧やファッションたるや清潔感のレベルを逸脱している。どう考えてもこんな行動は分別ある大人の行動ではない。

 これでは国民の義務である、勤労、納税、教育のすべてを果たしていないのでは無かろうか。世は不況の真只中、このありさまで日本は国際競争に生き残れるのであろうか。



IT革命

 米国では1990年から2000年の10年間で生産性が約40%向上し、その原動力はIT技術だと言われている。この間日本の生産性はどのくらい向上したか手元に資料がないので定かではないが、おそらく見るべき数字はあがっていないと想像される。最近米国労働省が発表した本年1−3月期の非農業部門の労働生産指数は年換算で8.6%上昇したそうである。昨年の景気後退期においても生産性は向上し、その原因はリストラとIT(情報技術)の活用によるものだそうだ。ITバブルははじけたけれども「一般の事業会社へのIT導入は今後さらに大きな効果を米経済にもたらす」と元政府高官も述べている。

 たしか日本にもITバブルがあったはずだが、どうだっただろうか。当時日本のITの花形は携帯電話とネット対応型ゲーム機ではなかっただろうか。たとえば携帯電話は生産性の向上にどのくらい役に立っているのであろうか。携帯電話は国民の2人に1人位は普及していると思うが、この普及を支えているパワーユーザーは中高生、大学生などだろうか、この層がいくら携帯電話を活用しても考えてみれば生産性はあがるはずはない。せいぜい消費を押し上げたというのが実態ではないだろうか。経済の視点からみると大した内容は話されていないであろう。情報機器という意味では情報機器だが厳密にいうと情報お楽しみ機器ではないだろうか。ゲーム機とあわせて考えると日本のITInformation Toy の略だったかもしれない。その携帯電話を販売する会社がIT銘柄でIT株バブルにおどった。 日本もそろそろ本物のIT革命に取り組もうではないか。



監視員

久しぶりにプールに行った、プールサイドの椅子で監視員2,3人が視線を交わしながら、何か話をしている様子だった、いつもの光景である。このプールにも高い監視台があるが、夏休みの繁忙期を除いて使われているのを見たことがない。よほどのことがない限りルール違反者に注意することはないし、手の届くところに浮き袋を準備している様子もない。 仕事柄時折海外出張に行く、とりわけ米国が多かった、たまにプールに行く。数少ない経験で恐縮だが、アメリカのプールの監視人は必ず1人で監視台にすわり、プールを見つめてルール違反者にも厳しい、交代時の連絡以外私話をしていることを見たことがない。しかも短時間おそらく30分とか1時間で頻繁に交代していく、長時間集中することはできないことへの配慮だろう。

ここに日本とアメリカの違いがはっきりと出ている、日本の監視員は何もないことを前提にくつろいで座っている、大方の場合はそのとおりになる。しかしアメリカの監視員は何かが起こるかも知れないことを前提に監視している。むろん事故があると、そのプールの管理者、場合によっては監視員まで責任をとらざるを得ない可能性が高い。日本人的体質はプールの監視員の態度にも染み出ている。安全を守るために監視するのと、安全を守る体制をとっている一種の建て前(フリ)との違いであろう。これは日本社会のあらゆる面で現れている。たとえば会社での稟議制度、国対で決まっている国会の本会議これらは儀式にすぎない。協議検討をおこなった、民主主義の手続きを経た事にするためのフリである。そして監視員にも責任がない、BSEの事件でもはっきり証明された。国民の生命財産を守れない監視員はいらない。日本人全体がフリばかりしていては日本の再生はありえないと思う。経済再生のために、責任ある行動を起こさねばならない。



020506

増殖曲線

先ごろ発表された数百年にわたる日本人の推計人口変化のグラフを見て、微生物の増殖曲線にそっくりだと思う。戦国時代から江戸時代初期にかけて急速な人口増の期間があるが、その後江戸時代を通して人口の変化は少ない。微生物の増殖曲線で言う誘導期に江戸時代があたれば、明治から大正、昭和にかけてが対数増殖期、ごく短い定常期が平成、そのご死滅期に移って行くのか。日本人が生物である証がこの曲線かもしれない。微生物が増殖して行くには温度、水分、pH、酸素濃度、浸透圧、栄養素、これら6つの必須条件を満たさねばならないといわれている。

日本人あるいは人類にとって人口が増えることのみが良い事だとは言えないだろうが、日本人の人口が急激に減少することは生物としての日本人にとって必ずしも良いことではないであろう。日本人にとってこれらの必須条件とはなにであろうか。嘗ては欧米先進国に追いつくことが日本の目標であった。経済的に先進国に追いついて目指すべき目標を失ってしまった。死滅に入った微生物には新しい培地が必要になる。日本人にも新たな培地(ドメイン)を早く見つけなければならない。新しい目標を見つけることが日本再生の鍵ではないだろうか。日本にとって企業にとってドメイン(活動範囲や占める位置)の確立こそ最重要であろう。



020424 一社懸命

一説によると一
生懸命と言う言葉はもともと一所懸命だったが、織田信長が尾張から美濃そして安土に居城を移した際に、部下の土地への執着を取り除く為に使ったとされている。それが一家(藩)懸命、一社懸命に変わって今にいたっていると思う。
しかし昨今のリストラや早期退職などにより人生の大半を同じ会社で過ごすことが難しくなってきている。例えばエネルギー企業をみてもこの50年余りで主役は石炭、石油、一時脚光浴びた原子力、今後主役になれるか、太陽エネルギー、風力、燃料電池、バイオマスなど激しい変化をしている。産業構造の変化により会社の元気な期間が徐々に短くなり、サラリーマン人生より短くなりつつある。電機業界にあってその傾向は大きく70年代隆盛を誇ったオーディオメーカーの中で、業態の変更がうまく行かなかったところは、舞台から消えていった。
今や一社懸命は覚束無くなっていきている、ある大手電気メーカーが行なっているように、同じ会社の中で電気やメカなどの従来技術の技術屋からソフトエンジニアに転換を勧めているように、一職懸命すら難しくなっている。若い時に修得した知識や技術で一生食べていくことが出来にくくなっている。
職業によって個人のアイデンティティを確立している人も多くいるであろうから、一つの仕事を続けられないことは個人にとって厳しいことになる。今後社会の変化に対応できる才能を開発しておくことが否応無しに求められるであろう。塾のCMではないが、今若い人たちは「私は何を勉強すれば良いのだろう」と思っているかもしれない。


020419 大人

大人しいとは子供がいたずらをしたり、騒いだりしないでしないで静かにしていることと国語辞書に書いてある。静かな振るまいをするのが大人と言うことであろう。最近車の騒音が著しくうるさい、どうももともと車に装備されていたマフラ(消音器)と違うものが取りつけられているものが増えているように思う。都会の暗騒音の中で数十メートルいや100メートル以上離れていても耳を塞ぎたくなるものもいる。
少年の心を持った男は魅力的だという説もあるが、少年のままの男はどうであろうか。自動車の運転は18歳以上が求められているので、ほとんどのドライバーは大人のはずである。大人に向かって大人しくしなさいと言わないといけない時代が来たのであろう。国語辞書の大人しいの説明の主語「子供が」を削除しなければならない時がきたようだ。河鹿や鈴虫のかすかな音を愛でた日本人はどこにいったのであろう。
今日も事務所の前を通りすぎる爆音の行列は不景気にたいする憂さ晴らしの爆竹の音にも聞こえる。このご時世大人なら他にしなければならないことがあるはずだ。日本人の大人としてのモラルが問われている。


020416 眠れるエコノミックアニマル

嘗て中国のことを眠れる獅子と言っていた時代がある、時代は移り中国は世界で最も勢いのある国の一つである。ここ2年余り前から電車通勤を始めたが、朝の列車はご多分に漏れず、いわば立錐の余地のないほど込んでいる。気になることがある、眼を座席の方に向けると座っている人の6,7割以上の人は最長40、50分の短い線区にも関わらず季節を問わず寝ている。個々の人が寝ているかどうかは自由であるが、これだけ多くの老若男女が今しがた目覚めたばかりの時間だと言うのに、眠いのは何故だろうか。
私はしたくないことをしなければならない時、やたらと睡魔が誘う時がある。不景気な昨今会社での1日を考えると眠くなるのであろうか、あるいは仕事のことなど考えたくもないほど眠いのだろうか。30年ほど前日本が日の出の勢いだった頃にも電車を利用していたが、今思い出してもそれほど寝ている人はいなかったような気がする。このころから日本人はエコノミックアニマルと呼ばれ始めたのではなかろうか。さしずめ現代の日本人は眠れるエコノミックアニマルだろうか。経済が振るわないこととも無関係でないかもしれない。春眠暁をおぼえず。いや春夏秋冬暁を覚えず、経済も寝ている。
 


020411 運動会

最近、ゆとりの教育や学校週5日制ということで、学校の議論がにぎやかであるが、学校というと冷や汗をかいた思い出がある。10年以上も前のことであろうか、息子がまだ小学校の低学年で、風呂に一緒に入っていた時、秋期運動会の練習の季節だったので、徒競争の練習の様子を聞いてみた。私は子供の時、特に運動会を楽しみにしている方ではなかったのこともあり、季節の挨拶代わりの何気ない質問であった。
質問は「運動会のかけっこでは何着くらいになりそうか?」という質問だった。息子はそんなに脚が遅い方ではないと認識していたので、特にいやな質問ではなかろうと思っていた。あに図らんや、「わからない」と言う。こちらは思いがけない答えが返ってきたので、面倒くさがらずに人の質問には答えなさいとひどく叱った。すると「だってわからないもん」と言う。それでその理由を聞いてみると、全員走らせて速い順番を調べて、走力の順に徒競争の組みを作るという。 したがって特に速いか遅いかでない限り、中くらいの組みは実力伯仲、練習のたびに順位がちがうのである。こちらの思いもよらない仕組みで組みが作られていたのである。これではわからないのは当たり前である、それから息子に平謝りした、幸風呂の中だったので冷や汗は見破られなかったが、驚くようなことが学校では行なわれていたのである。一番速い組のビリは一番遅い組みのトップよりはるかに速い、これでは1等もビリも何の意味もない、競争に白けた子供たちが大人になり、国際競争の荒波の中に出て行く。いやもう出ていっているであろう。 日本にゆとりは今後もあるのだろうか。


020408 部分最適

先日のこと地下鉄の駅から地上に出ると何時も路上駐車で一杯の大通りの一番外側レーンが見事に空いていた。 ドライバーのマナーが良くなったのかなと、すこし歩いていくとパトカーが止まっていた。 パトカーの効用であった。 さすがパトカー天下の迷惑駐車もこれで解消と思っていたが、よくよく考えてみるとパトカーがレーンを塞いでいるので、使えるレーンの数はいつもといっしょだった。 パトカーは眼に見える範囲の駐車違反には効果があったが、レーンの有効利用という点では、違法駐車と何ら変わらなかった。次の日はやはり違法駐車が目に付いたので、レーンの有効利用の点では納税者の立場からいうと、パトカーは経費が掛かっている為、違法駐車より費用対効果は悪いことになるかもしれない。当日の違法駐車の追放というパトカーの目的は達しているのであるが、もしもスムースな車の流れを目標にしていたらほとんど効果はないことになる。
歩きながらパン工場の作業流れのことが思い浮かんだ、作業人員の一番多い成形工程の効率を考えて作業を進めると、窯前が煩雑になったり、窯の効率を重視して作業を進めると包装工程にパンが積みあがったりしてくる。目に見える範囲の部分に注意を奪われると流れ全体の効率が悪くなる。部分最適は全体の最適にはならないであろう、部門の成果を求めすぎると全体の効率が悪くなる。要は全体の流れが最大になることが目的なのだから、工場内にパトカーは要らない。


020403 天才ピアニスト
 
 先日テレビで中国のピアニスト英才教育の番組を見た、その中で音楽院の教授が天才少女に悲しい曲を丁寧に教えていた。 この少女は中国の急速な経済成長の中、恵まれた家庭環境の中で健やかに育ってきたという。 愛の曲は上手に弾けるが、悲しい曲が弾けない、悲しみを知らないからだという。 
確かに恵まれた環境に育つと悲しみを感じることが少ないかもしれない。日本人はどうだろうか、日本人の方が中国より早く豊になった。嘗て日本人は戦後の混乱と貧困の中から這い上がってきた、家族との死別や貧乏や飢えの中からより良い明日を目指して頑張ってきた。満たされない自らの境遇から抜け出そうとがむしゃらに働いた。 恵まれていないことが、日本人に向上心と努力とを与えた。
そういえば最近演歌がヒットしなくなったそうである、かって流行歌の多くは演歌であった。演歌は怨歌とも書くらしい、日本人の心から怨みが消えたのは良いことかもしれないが、苦しさや悲しみの心も失ってしまったのではないか。 辛い境遇は誰しもいやだが、満ち足りた境遇だけでは人は駄目になる。  確かに昔はもっと貧しかった、しかしチャレンジ精神は旺盛だった。 厳しい日本の現状を見据えて、チャレンジしよう。


020401 見えない仕掛り時間在庫

最近TOC(制約条件の理論)が注目されている。 一言でいえば「工程のボトルネック(最も効率の悪い部分)に仕掛り在庫が溜まってスループット(売上−材料費)が滞っている場所を探して改善し、スループットを改善する。」であろうか。
 生産工学が発展している産業に自動車がある。従来ジョブショップ(加工対象物により加工順序が異なり、それぞれの加工順序にしたがって加工される)で行なわれていたが、フォード以来の生産性向上への取り組みで、工程はライン化されフローショップ化(加工順序にしたがって生産設備を配列し、それを用いて生産する)されてきた。
自動車生産システムで最も有名なものはトヨタ生産システム(TPS)であろう。その中でも、あんどんシステムは当にラインのボトルネック発見のツールになっている。日々の作業の中でボトルネックを発見し、その原因を取り除きスループットを向上させる。考え方によっては制限条件の理論以前にそれを実現させていたと言えよう。
制限条件の理論では仕掛り在庫の滞留から、ボトルネックを発見しているが、仕掛り在庫が無い(作れない)産業の場合はそれをいかに発見すれば良いのであろう。仕掛り在庫の無い産業とは日配食品産業などが典型であろう。短時間で生産を完結させ、しかも仕掛り品を滞留させると、変敗、過発酵、焦げなどが発生し製品にならないので仕掛かり在庫はない。パン,蒲鉾などはその例であろう。仕掛り在庫がない(作れない)ために、仕掛り在庫ができないように時間を調整して生産している。即ちボトルネックの処理能力以上の仕事はしない、別な表現をすればボトルネックに仕事が集中しないように、仕掛り時間在庫を作っているのである。仕掛り在庫は目に見えるが、仕掛り時間在庫は眼に見えないので、これらの産業では生産性向上の問題点に対する認識が形成されにくい。


020311 日本の食品工業の将来

  日本の食糧自給率は約40%、日本国民の一人としていささかの不安がある。政府は食糧自給率の上昇に熱心である。 その一方で日本農業の生産性は極めて低い。 米60kgあたりの生産費は日本約19000円、米国1800円で米国の約10倍。耕地単位面積あたりの収量はほぼ同量である。小麦価格(薄力粉)については60kgあたり国内産の政府買い入れ価格は約8900円、政府売り渡し価格約2300円、同じく米国産、買い入れ価格約1200円、売り渡し価格約2700円、すなわち国内産、米国産とも政府の売り渡し価格は2500円前後であるが、買い入れ価格は7倍以上の開きがある。 いわゆる逆鞘である。 この価格差による差益で日本農業は支えられてきた側面がある。
  この状況を続けて行って日本の食品産業は今後も発展的継続が可能であろうか、特に穀物加工の産業の将来に不安を持つ。実際成形冷凍生地やプレミックス粉に姿を変えて小麦が日本に入ってきており、それが徐々に増加していることは業界人なら誰でも感じている。 国内外価格差がこのままだと、これらの輸入量は増加するであろうし、それは小麦粉使用量の減少を引き起こす。 小麦輸入の減少にもつながり、製粉産業に打撃を与えるであろう。 もしもパンや麺に姿を買えて入れば製パン産業や製麺産業への影響も多大なものになるであろう。 今後も食品加工技術が発達しグローバリゼーションが進めば、小麦の大きな内外価格差が続く限り、この傾向は顕在化するであろう。
  そうなれば穀物内外格差の補填の源資も不足し、日本農業への助成も難しくなる。 食用製油産業においては、既にパームにおいて搾油が国内では難しくなってきている。 農業の持続的発展は大事だが、それを加工する食品産業が衰退すればもともこもなくなる。 農業政策と食品工業政策とは一体の問題として考えなおさなければならない時期が来ているのではなかろうか。


020302 何もしないリスク

  新しい事にはリスクが伴う、故に新規事柄は慎重に成らざるを得ない。20世紀まで日本の総人口は増加した、特に第2次世界大戦以降、人口、国民所得ともバブルの崩壊まで急速に増加してきた。 この為経済は拡大し、新な事をしなくても経済は拡大した。
  この間、オイルショックやドルショックなど経済危機は起たが、乗り越えて来た。 しかし今回の大きな経済危機は近来始めての事である。ここ50年余り、経済は常に拡張するという、幻想に捕らわれ、何かを起こして失敗するよりも、何もしないで過ちを起こさず、経済拡大に身を委ねていた方が得策と言う、消極的体質が身についてしまった。 多くの人々が退職の挨拶状に「私の在職中、大過なく勤めあげられた…・」と書いてきた。 何かをするより何もなかったことが、謙遜もあろうが、誇れるのである。
  しかし今後もそうか甚だ疑問である、厚生労働省の研究所によれば総人口のピークは数年後の2006年で、その後徐々に減少していく。 他の研究によると生産年齢人口(15歳から64歳)のピークは90年代半ばに経過して、総人口よりも先に減少して行く。 今後生産は縮小し国民所得は減少に転じてくる。
  今までは総人口増加により、消費は増加していったが、今後消費は減少していく。 別な表現をすれば今までは経済の拡大のお陰で売上は徐々に増加してきたが、今後は昨日と同じことをしていたら売上は確実に減少していく。 無論個々には新たな商品やサービスにより売上を伸ばす企業もあるが、総量としては減少に転じる可能性が高い。
  考えねば成らぬことは、量の面で日本のマーケットは縮小していくので、何もしなければ確実に売上減になる。 無論売上を伸ばす施策を考えねばならぬが、同時に経費削減によって収益を確保することも考えねばならない。 特に日本の生産性は先進諸国中で最低だと言われている。 この生産性を向上させなければ、日本に明日はない。 生産性を向上させる手立てを実行しているか。 何もしなければ企業に明日はない。 何もしないことは企業にとって最大のリスクになる。

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